
すっかり忘れていたことに突然はち会わせると、妙な感じがする。
何年も前に買った本の表紙の話しだが、気になるイラストが描かれてあった。
じーっと見ても、そのイラストに描かれている絵の『状態』がつかめなかった。
それは編んだ革のイラストだった。
その本自体はとても有名な本で、どれくらいお世話になったか分からない。
本の内容は、編み方が沢山。
私は最初の頃、その本を見ながらせっせと何度も繰り返し編んでいた。
間違えたらほどいてやり直して、何個となく編んだものを作った。
おかげで、編み方の名前を忘れても、手が覚えてくれた。
ちょっと忘れたりしていても、紐を手にしてじっとしていると思い出す。
この本は、とても素晴らしい先生だった。
でも、一つだけ分からないことがあった。
どうして本の中に載っていない編み方が描かれているのか。
それが表紙のイラストにあった編み目だった。
あれ?と気がついて、何度も往復しながらページをめくったけれど、
どうしても表紙のイラストにある編み目はない。
未だに見落としているのか、それとも載っていないのか。
「う〜ん」と考えて、やってみることにした。
それが随分前のことで、もうあれから5年も経つ。
で、5年前の挑戦は、結果から言うと出来ずじまいになった。
実際に編んでみても、ノートに描いてみても、何をしてもできなかったのだ。
度々その本を見ることはあった、その後。
表紙のイラストに目が留まるたびに、少々情けない気持ちが浮かんでいた。
スープの取り残しのアクのように、取りたいのに除けない。
仕方ないな、と思いつつも、目に映ると諦め悪く見つめてしまう。
それが今日、特に関係ないことによって、再び挑戦となった。
偶然、作ってみたかった腕飾りを写真で見かけた。
それはとても美しい腕飾り(私の評価)で、
編み目は平編みのようなのに、編みあがった姿は丸みがあるものだった。
立体感のある魅力的な腕飾りの写真をじーっと見ていて、
作れるかなぁ?とふと思い、2mmの厚みの革を切って作り始めた。
買えるものなら買うのだろうが、そこは無駄遣いできない生活なので自作。
5分くらいあれこれ紐を動かしながら、やっと合点がいく。
それで編み進められると分かり、そのまま編み続けたら・・・
出来たのは、あの苦い思い出の表紙イラストの編み目だった。
編んでいる最中に、なんかどこかで見たような気がする、と思っていた。
どこだったっけ、いつだったか。
もしかして以前に編んだことがあったのかな、とぼんやり考えていたのだけど、
どうにも思い出せなかった。 怖ろしく鈍い記憶力だ。あんなに梃子摺ったのに。
そして直に手の平に乗った、あの編み目の腕飾りを見て「ああ〜・・・」と驚く。
実際には、イラストのものとも、写真のものともちょっと違うところがある。
写真は8本で編んでいて、イラストはそれ以上の本数で編んでいる感じ。
私が作ったのは、私の都合で7本の紐である。
ただ、7本の紐からでもどうやら同じような形にはなるようだ。
横に倒した時、少し上下の別は見えるが大して気にならない。
偶然。
何年もして、忘れた頃にやってくるとは言うけれど。
本当に忘れた頃に、うっかり道端で出会ったような、そんな感覚。
会えて良かった。 出来るようになったんだ、と思うと、またそれも嬉しい。

4月を卯月と呼ぶけれど、当てられた漢字の「卯」の花よりも、
沢山の生命が生まれてくるような『生』の文字のほうが、個人的には印象強い。
田植苗月ともいうようだけど、田植えは5月頃のほうがそうかなと思う。
昔は4月のほうが気候的に合っていたのかなぁ。
私の子供の頃は、近所の田んぼは5月になると柔らかな緑色を敷き詰めていた。
緑色のピンと背すじののびた小さな稲の苗を、農家の人が腰を曲げて植えていた。
一家総出で田植えをする風景をあぜ道から眺める時、
何となく近づきがたい、粛々としたものを感じたものだった。
とにかく、何かが始まるとか、生まれるとか、4月はそうした印象だ。
このところ虫も増えた。
暖かいから、続々と虫に出くわす。
壁を見れば、小さなカメムシがせっせと歩いているし、
窓を開ければ羽虫の類が飛び込んでくる。
ドアの開閉時は必ずといっていいほど、戸の裏か表かに誰かしら虫がくっついている。
知らないうちに屋内の植木の土にも、布団に寝そべるように虫が寛いでいたりする。
花が咲けばハチが飛び交うし、風に流されるようにチョウが舞う。
アリも寒さが消えたとばかりに、忙しなく行列を組んで食料を集めている。
イエグモの子もどこからかちょこちょこ出てきては、家中を見物している気がする。
・・・クモは虫ではないが。でもまだ5cmくらいのかわいい姿で気に入っている。
私も触発されたのか、虫を最近作っている。
虫の姿が目に入り始めると、特に好きというわけでもないにしても目が行く。
昆虫は興味深い形をしている、とよく思うのだ。
ほんの少し形が変わると、まったく別の虫のように見える。
これは魚にも鳥にも他の生き物にも同じことが言えるけれど、
でも虫は特に、(皆とってもよく似ていそうなのに)違いが顕に出る。
図鑑を開いて、丸一日×数日間を、昆虫の写真を見て過ごす。
暇な人だと思われそうだ。 しかし、暇は自分で作るものだ。
暇でいたければ、有り余る暇、は何もしないことを選べばそうなる。
私はよく暇人と言われるが、それはちょっと違うのだ。暇なままではいないもの。
動ける時間を用意しなければ、思いついても作れないだろう。言い返しはしないけど。
話を戻す。
図鑑の説明と、世界に散らばる昆虫の面白い姿を見つめていると、
外に出て観察したくなるもので。
里山や広い野原、田んぼや畑が身近にない環境が、こうした時は一層悔やまれる。
せいぜい近所の空き地に出かけて端のほうの雑草の中にしゃがみこむくらいだ。
それは世界の華々しい姿をした虫たちを、脳裏から遠く引き離す行為でもある。
日本の、それも空き地の端にのび始めた雑草の群れには、
そこにいて違和感ない姿の虫でないと生きられないのだから当然である。
そして、そんな地味ともいえる空き地の生息者の姿を見つける中、
とても感動してしまう瞬間が、大きめの強そうな虫を見た時だ。
カマキリとか、大きいカメムシとか(ある意味強い)、ハンミョウとか。
見やすいサイズというだけで感動する、このちっぽけな自分にちょっと疑問はあるが、
そうやって大小の虫を観察して、驚いたり楽しませてもらい、春の一日は過ぎていく。
家に戻って、革を切って、小さな虫を作り始める。
うまく作れないな〜と手間取る時、空き地にいた虫たちが何だかとてもすごく感じる。
昆虫は、きちっきちっ、とした体をしているから、一見作り易そうなのだが、
私の不器用さが足を引っ張るのか、とにかくそう簡単に近づけないことを知る。
一匹作ると、次の一匹は、また違う姿をした虫を作りたくなるのだ。
6本の足と、4枚の翅、ふしで分かれた体を持つ昆虫類は、本当に面白い生き物だと思う。
一匹ずつ時間をかけて、一生懸命似せながら、
空き地にいた虫たちを4月いっぱい作っていこうと考えている。
出来上がったら、箱庭ならぬ箱空き地を用意して、虫たちの居場所を作るつもり・・・
皆様、良い春を過ごして下さい。

冷たい空気が去り、暖かい風と光の日が毎日やってくるようになったこの頃。
この前、ポストに一枚ハガキが入っていた。
このハガキを受け取って、しばらく嬉しくてポストの前に立っていた。
何度か展示で一緒になった作家さんの、個展のお知らせだった。
いろんな意味で、この人に学ぶことが多い。
朗らかで親切で、とても感じの良い人柄。
人柄だけでも学べるような相手だが、センスも良い。
どことなく日本人離れした感性が、作品全てから感じられる。
表現方法がとても豊富で、見ているだけで仕合せになる。
本当に豊かな人だ。
きっと、個展も素敵な空間を作り出すだろう。
そして訪れた人たちが優しい気持ちになれると思う。
この人の作るものは、そうした気持ちになれる要素がある。
土に落ちる、ふっくらした種のように。
お招き頂いたので、是非出かけてみようと思った。
期間中、穏やかに晴れた日が続きますように。

私のほうは、特別何があるわけでもない。
先月末には、ネットのトラブルでGmailのアカウントを消すことになり、
おかげで少しばかりの繋がりを保っていられた人たちのアドレスが
操作をよく分かっていない私のミスで、一緒に消されてしまった。
やれやれ、どうしたもんか・・と思っていたところに、
次は仕事都合上、収入が激減した。
もとから大した稼ぎはないでこれまでやってきているが、
幾らなんでも大丈夫だろうか?と少々頭の痛い、春の出だしを迎えている。
しかし、こういう時になると、どういうわけか作りたくなるもので。
急を要するような事柄だと、制作云々、手に付かなくなるけれど、
心のどこかで「大丈夫」とささやいている声を聞ける時は、制作する。
傍から見たら、何となく危なっかしい気もするかもしれないが、
有難いことに私の場合、傍から見守るほど距離の近しい人はいないので、その心配はない。
作ったものがどうなるか、何を引き寄せるのか、
そんなことに期待をすることもない私の制作の日々だが、とりあえず作るしか出来ない。
それを望むのは、他でもない私自身だ。
これしか出来ないし、これだけが杖だ。
少々頭の痛い春の出だし、と書いたけれど。
外は輝かんばかりの生命力漲る季節であるに変わりない。
私の時間の一部に苦味が落ちたというだけ。春の来訪に似合わないちっぽけなことだ。
こうした時だからこそ。
楽しくなるような、よいものを作っていこう。

今年は大き目の革もかなり端革箱に入っていた。
なんとか、その大きさを切らずに使いたいと思っていた。
それでその大き目の革を、さらに繋いでバッグを作ることにした。
この形は他人様のアイデアで、ファスナーを多用するバッグ。
作ってみるとポケットが多くて、こんなにポケット必要だろうかなどと思ってしまう。
でもきっと世間ではポケットは多いほうが良いのだ。
だからアイデアでも「ポケットたくさん」になるのだ。
とにかく文句を言わずに作ってみたら、これはこれでとても好きな雰囲気になった。
いろんな色がある。いろんな革がある。
どれも大きめで、全部一緒に合わせたら、こんなに素敵なバッグになった。
大きさは一人前だ。 あとは一人前の働きを期待する。
このバッグでどこに行こうか。
春ももう始まったし、桜が満開になる頃を見計らって、どこか深山へ行きたいなぁ。

私はあまり光のあるものを使わなかったのだけど。
今年は少し、こういったものを触っていこうと思っている。
しかしあまりにきらきらとしていて、作り終わった後、まじまじと見てしまった。
見慣れない、とはこんな感覚なのか。
下のほうにぶら下がったプラスチックのおもちゃの宝石。
プラスチックというのも、私がほとんど使わなかったものの一つ。
でも使った。
昨年、いろんなことがあって、これまで自分が枠にしていたものを開けてみようと思った。
何でもあり、というわけじゃない。抵抗があることまでやろうとは思わない。
少し、ここから幅を広げたらどうなるのかと。
昨年のある日、自分で制限を決めている枠がとても窮屈に感じたのだ。
上手く言えない。
その気持ちがどういうものか、
言葉にしようとすると、なかなかたどり着かない気がする。
でもおもちゃ屋さんの壁に、これがぶら下がっていたら、
それもいいんじゃないかなぁ・・と思って、眺めている。
シンドバッドが出会ったルフ鳥は、宝石の谷に彼を連れて来た。
宝石の谷はヘビがうようよしていて、彼はそこから逃げ出すために必死に考える。
そこで、崖上から谷に投げ込まれた動物の死骸が、ワシに掴まれて上がっていくのを見て、
シンドバッドは自分の体を死骸にくくり付けて脱出を試みるのだ。
私は、人間は作らないから、このお話の巨鳥とヘビと宝ものを中心にした。
死骸はやめておいた。
クジラは、シンドバッドたちが島と間違って上陸したお化けクジラ。
ゾウは、ルフ鳥が大蛇と同様食事にしている動物。
月が出て星が輝く夜空を、大きな翼で羽ばたき飛び去る巨鳥に、
シンドバッドは何を思ったんだろう。

時折雨や雪は降るものの、
光の暖かい晴れた日とか、風が吹かなきゃ寒くない日とか、
そうした日が増えているこの頃。
今日は気がついたら日中はずっと半袖でいられた。
屋内だからというのもあるだろうけれど、
それにしても普段は半袖ではないのだから、やはり今日は暖かかったのだ。
朝一番で知人にもらったメールでも、『春が近づいている』とあった。
2月以降、寒さが戻るようなことはよくあるにせよ、
少しずつ春と距離が縮まってきている気がする。
空は相変わらず高く澄んで、
絵の具を一かき、するりと混ぜたような雲を流して、薄く青く佇む。
私は空を眺めているのが好きで、暇があるとよく空を見て過ごしている。
空を見ていると、トビの声が響くのが普通だと思ってしまう。
ぼんやり見ている時間、大体何かが聞こえるといえば、トビの声だから。
ヒヨドリやスズメやカラスの声もしないこともないけど、
彼らは姿を見せることなく木陰で群れ、耳に入る声もおしゃべりに近い。
空とセットで姿も見えるのは、いつでもトビだ。
そして、トビの声は歌に聞こえる。
もし、海外のどこかにすむような日が来た時、
私はそこでトビの声を聞けなかったら、ちょっと日本を懐かしむかもしれない。
そんなことを青空を見上げながら思っていると、
異国の地では一体どんな鳥の声がその地に響き渡っているのだろう?と気になった。
気になっても知らないことだから、そこから先の続きはない。
う〜ん、としばらく考えてみたけれど、
どこでも猛禽類の声が多いのかなぁ。
鳥が高い空から見渡しているのは猛禽類のイメージだ。
でももしかしたら、生い茂る森の近くや、
畑の続くような場所だと小鳥の声のほうが頻繁だろうか。
そんなことを考えている間に、太陽はゆっくり午後に向かって傾いていく。
・・・昨日一昨日と作っていたものがある。
大空繋がりで、天蓋を覆うほどに大きな鳥の話に魅せられて作っていた。
はるか昔の異国の話。
賢い娘が、千の夜をかけて王に聞かせた物語。
『幸多くいらせられます国王様、このように聞き及びましてございます』
そして登場人物自身が語り始める、入れ子式のアラビアンナイトは語られた。
とても有名なシンドバッドの冒険は、
私は絵本ではじめて知ってからずーっと好きだった。
そこに出てくる宝の山や、不思議な島や、怖ろしい怪物や荒れる海は
いつ読んでも胸が躍るくらい楽しい。
私が作った鳥は、天蓋を覆う・・・とまではいかない。
どちらかというとサイズは手乗り文鳥だろうが、
でもこの目に映っているその姿は、シンドバッドが必死にしがみついた巨鳥なのだ。
雲を蹴散らし、大空を巨大な翼を広げて飛び続けるルフ鳥。
トビの声とは似ても似つかないだろう。
鹿革で出来た羽を広げたこの姿をじっと見ていると、
ルフ鳥の一声は、異国の晴天に突き抜ける雷のようなのだろうと想像して、
この小さな革の鳥が叫ぶのを期待してしまう。

年末の話なのだが、ある作家さんがうちに来てくれた時のことだ。
私の作ったバッグ群を見て、彼女はそのうちから一つを取り上げ、
『胃袋みたい!』と言ったのだ。
実はその『胃袋みたい』なものは、私が『心臓型巾着』と名付けていたもので
シュリンクの牛革で作った、まるでちょっと脈打つような姿だった。
どっちにしろ内蔵だ。
それはいいのだが、その時から『胃袋』という言葉が私の脳に刻まれた。
彼女が帰ってから、私は何日もその『胃袋』的な形をなぜか意識していた。
心臓型巾着はそっとしておくことにして、
胃袋型の何か・・作れるかなぁ?と思い続けた。
あれこれ回り道して調べ続けて、ようやく「こうしよう」と決定。
それが上の写真のものになった。
2ヶ月も思い続けたわりには、呆気ない出来ではあるが。
にしても、使い勝手はわからないが、中々魅力的な姿。
好みの問題だ。
胃袋がモデルなだけに、サイズはそんなに大きくはない。幅20cmくらい。
思えばこれも有難いことで。
使える革の大きさは限られている。胃袋なら実寸でも何とか端革で可能だった。
私が作ったのは胃袋の形のバッグ、というべきか、ポシェットというか・・だ。
コルク栓はオマケのようなもので機能はない。 ただ、栓があると雰囲気が違うのだ。
趣はさておき、これはファスナーで開閉し、小さいながらも一応中に物が入る。
・・・水分は勿論ダメだけど。
大体の人が思い描く有名どころの水筒は、そのうち作ってみたい。
水筒であれ、ワイン入れであれ、そうした使い道になるのが一般的だった胃袋。
ミルクを入れて運んでいたら、しばらくしてチーズになっていたという話は有名。
牛や羊の胃袋を用いた袋に、生乳を入れて揺すれば分離する。
お酒を入れるのも随分昔からあったよう。
袋状の内臓は、陶器や木製のものに比べてずっと軽いし持ち運びやすく、
落としても壊れないから使い勝手が丁度良かったのだろう。
出来ることなら私も水筒を作りたいところだが。
しかし私が羊の胃袋を手に入れていた時期は、そんなことを思うことなく食用にしていた。
現在は胃袋をしょっちゅう買うようなことは減ったので、
こうして革で本体を真似て作るのみ。それもバッグのようにして。
楽しいものが出来て良かった。
「胃袋」の一言を出してくれた彼女に感謝。
いずれ機会があったら、是非胃袋製品を作ってみたいと思う。
しかし胃袋を洗って食べていたその頃、なぜこのことを思いつかなかったのか・・・
作ってみたら、きっと良い経験になっただろうなぁ。

(もう一つは牛の角先を栓にしました↑)

何時間も作っていると、目の前にあるものを見ていない時間がある。
ふと気がついた時にそれを知るのだけど、
手の中にある制作中の何かではなく、頭のどこかで見ている何かを見つめ続けている。
そういう感覚に気がつく時がある。
何を作っていてもそう、というのでもなく、これは想像作品の時に多い。
実用的な制作は、作業一つ一つに気を配ってきちんと見ていないとできない私なので、
『作っている』意識がほとんど占めていると思う。
ちゃんと革を切り出すとか、きちんと目を打つとか、きれいに縫うとか、
そういうことをいつでも気にしていないと実用ものはすぐ失敗してしまうからだ。
私は昔から、練習すれば上達する、という部類には縁遠い能力の持ち主らしい。
世の中、練習しても天性の不器用さが勝って、特に上達しない人もいるものなのだ。
話を戻す。
想像作品の制作の時は、きちんと作る意識というのか、
ああしなきゃこうしなきゃ・・が少なくなる。
飛び飛びで注意して作業する場面は勿論あるけれど、大方何かを勝手に作っている感じだ。
どこかで分かっているような、ちょっと妙な感覚で進んでいく。
だから制作中は、目が4つあるような気分になる。
二つは手元を見ている目で、もう二つの目は頭の中を見ている気がする。
頭の中の何かを感じながら、手元が動いていく。
粗を言えば、作り自体はそこまで丁寧じゃないことになる。
丁寧にしたいけれど、それを意識すると頭に立ち込める煙の姿が見えなくなるから出来ない。
目くるめく煙の世界は、始まりを想像することは出来ても、
立ち上り始めたらどんどん増えていく。
広がる想像を止めることも操ることも出来ない、そういう場所で、
対象を見失わないようについていかないと作れなくなってしまう。
頭の中で見えているものを手に乗せたいと思うなら、
少しの時間を制作という作業に預けて、途中つまづいても転んでも追いかけ続けることになる。
私は一つにつき、一つしか選べないのだ。
頭の中では「見続ける」ことだけを。 動いている手は「形にしていく」だけを。
毎度、出来上がった想像作品を眺める段階になると、
『ここ縫えばよかったかな』とか『もうちょっとこっちだったのか』とか、
ちょっとずつ反省箇所が気になる。
でもそういう時は、机の真ん中にそっと置いてやると、
粗探しの小さな反省箇所はどうでもよいこととしてあっという間に消えていく。
そして、『私はこれが見たかったんだ』と嬉しさが湧き上がってくるのだ。
反省点を振り返るのは、少々なら必要だろうけれど、
細部が云たらとこだわるようなものじゃない。
そんなことより、何がしたかったのか、表れたかどうかが本当に大切なことだと思う。
今はそう思える。
・・・結構前の話だが、ジャックの豆を作ったことがある。
どうしてかここ最近になって、豆が伸びた先にあった宝が気になりだした。
革で作ったハープは柔らかいから動きやすいだろう。
勝手に歌って勝手に奏でてくれる楽器なのだ。体がこわばっていないほうがいい。
誰かが触るまで、ハープは目覚めない。
目が覚めるとき、弦はぴんと張って、鳥は首を伸ばして歌い始めるのだ。
どんなに小さなものであっても、ほんのわずかな欠片のような存在であっても、
それを表せることを心から感謝している。
見たいものを見える場所に連れて来れることに、いつも本当に嬉しく思う。

昨年はよく海へ行った。
私は泳がない(泳げないともいう)ので、海へ行くと岩場や砂浜から海を見ることになる。
春夏秋冬、いつでもだ。
太平洋側の海を見ていると、世界地図が頭の中で広げられてすごく遠くを見ている気持ちになる。
想いを馳せている時は広大でも、私の視力に映る範囲は実際、残念なくらい狭い。
でもそれでいい。そうじゃなきゃ、船に乗って海を渡ったときに感動しないだろう。
だから、千里眼じゃなくて良かった、と変に納得する。
ずっと向こうに何があるんだろう。
いつもそう思っている。子供の時も、浜辺で遊んでいる時は海をじっと見て考えた。
小学生の頃、親父のカセットテープにあった柳ジョージの歌の中で、
『アフリカの夢』という一曲が好きだった。
何度も繰り返しかけては、意味も分からず歌っていた。
歌詞の内容は、大人になってから読んでみると悲しいくらい気の毒な歌詞で、
なぜ子供心にこの歌が好きになったのか・・と首をかしげるものだった。
でも今でも少し覚えている『南回りの船で・・・』という出だしは、
どんな時でも必ず航海への夢浪漫をかき立てるのだ。
地図に載っている国の海岸線をそのまま見下ろすわけじゃなくて、
海岸線の緑色や黒い岩礁を一筋の線として見つける時、それはどんな感じなんだろう。
段々近づいてくる細かった線が、徐々に複雑な起伏をもった大地に見え始めたら、
そこからどんな続きがあるのか、誰がいるのか、何が待っているのかと想像するのかも。
だだっ広い海原を、何も見えないまま進む時はどうなんだろう。
どこへ向かっているのかが分かるのは、天気や時刻や海の顔色をよく知っている人だけ。
それが分からないまま船に乗っている人は、何を感じるんだろう。
何日も何週間も何ヶ月も、船に揺られていたら。 どんなふうに心は変化していくんだろう。
たまに釣りに行くけれど、それはおかずが無い時に限っているもの。
これが船上だったら、四六時中、魚介に頼ることになるのか。
大きな船なら船倉に食料を積めるけど、そんなに大きくない船なら食料維持のために釣りもするのか。
刺身が好きでよかった、と日本人でいることをしみじみ有難く思ったりする。
いろんなことを考えて、いろんなものを想像して重ねながら、
貝殻の砂浜と切り上がった岩場の温度を感じて海を見続ける。
蒸された強い磯の匂いが、風に乗ってしょっちゅう駆け巡っている中、
陸地の端っこに腰掛けて何時間もボーっとしている時間は瞬く間に過ぎる。
金色の朝が白金の昼に、白金の昼が橙色の夕方に、夕方なら即、藍色の夜空に包まれていく。
たまに思い出すのだけど、そういえば会いたい人がいる。
海のずーっとずーっと向こう側の大陸に、大きな湾から上がった先に、
会ってみたい人がいる。
いつか会う日は来るんだろうか、来なくてもいいけれど、
もし船で行けたらそれだけでお土産話になるのかな、とか・・・ 思いながら、
海から帰る。
今年もたくさん、海へ行こう。
灯台に登って、遠くを見て、磯を歩き回って、砂浜に座って
海の側であれこれ想いを馳せていたいと思う。

三十後半にもなってお年玉も何もないが。
あげる側に立っている年齢なのだが、実は有難いことに私はお年玉をもらう。
私の尊敬する職人さんは、毎年『お年玉』と呼んで、端革を送ってくれる。
この時期、1月早々のため、『初・端革』。
初・端革の到来は、私にとって宝が宅急便でやってくる感覚だ。
白鳥が飛来地に群れをなしてやって来るが如く、だ。
優雅な白い羽を広げて舞い降りる、毎冬の感動的な湖畔の一場面が、
私にとっては宅急便屋さんが息切れしながら巨大な箱を持ってくる場面と重なる。
・・・目出度い限りである。 宝箱であり、お年玉であり。
その名の通り、膨大な量の端革が届く。一度開けたら閉まらないほど詰まっている。
今年は11日にやってきた、宝箱。
これまで見たうちのどれよりも大きな箱に入って・・
大袈裟に聞こえるかもしれないが、その日は歓喜というか、小躍りに近い状態になるもので。
この日の後はしばらく夢見心地で過ごせるほどの影響力だ。
一種のお祭りの期間に似たような、端革週間となる。
普段は異様に渋るお金の出費もこの時は全く気にしない。
これまでの収納では間に合わないと分かるや否や、ホームセンターに収納ケースを買いに行く。
種類別に分けてしまっておけるように、幾つものケースを用意した。
牛・鹿・豚・馬・羊・山羊その他。
形で大きいもの、小さいもの、長さのあるもの、シュリンク、オイルドレザー、他。
それぞれが居心地よくまとまるように分類したため、一時的に革をまぶしたような部屋になる。
分けられた端革をケースに全部入れ終わると、今度はケースを並べた棚を見ていたくなる。
半透明のケースに収まった無数の端革を見ながら、あれこれ考えふけって時間が過ぎるのだ。
そんなこんなで一日が過ぎ、二日目が過ぎ、数日が瞬く間に過ぎていく。
思いついたことを片っ端から書いていくノートとペンを側に置いて、
新しく加わった革を眺めつつ、引っ張り出しては見つめつつ。
傍から見たら何をしているのだか分からないような姿だろう、とふと思う時がある。
でも当人は、宝の使い道を模索して、想像の世界に浸りっきりで時間が流れている。
嗚呼、今年は面白そうだ。
去年いろいろ覚えたことを試そう。
一昨年見つけてきた、自然がくれた贈り物を使ってみよう。
それより以前、力不足で出来なかった制作を形にしよう。
お年玉の宝箱が、今年生まれてくるものに大きく幅を持たせてくれた。
是非、愉しんで作ろう。
見たかったものを、作ってみたかったものを、使ってみたかったものを、
この手に触れたかったものを。