スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

いろいろと

.03 2012 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(-)
s-bag1c.jpg





暑かった季節が過ぎて、ずいぶん涼しくなってきた。

熱が引いてようやく回るようになってきた頭で、落ち着いて思い出すと、
私は今年、たいして作っていないような気がした。


別のことに時間を使う、ということが、日常に大きく影響するものだと改めて思う。
生活の変化は、気にしてようと気にならなくなろうと、確実に何かを組み込んでいく。

積み重ねていく時間を振り向いてみると、結構そのことに目がいく。
変なものだな。 時間はいつでも均等に与えられているというのに。
徐々に何かが終わり、徐々に何かが進出し、それが定着し、
私たちの日常生活の刻印は、流れていた川縁を削りとり、岩盤を磨耗していくのだ。
そしてふと、ある時めっぽう高い空の上から自分の『時の河』を見下ろすと、
上流から河口まで、いつか見た時とかなり異なる姿に少々驚きを覚えるものなのだろう。



さて。 たいして作っていない革のものだが・・・
それでも写真に撮ったものが幾つかあるから、気持ちばかり記録に載せる。


黒いバッグはこの前作った。

堂々とした焼印があり、やっぱり焼印が目立ってほしくてこの形に。
マチは4cmくらいだろうか。
こぶりなバッグだけど、使う人を選ばないシンプルな形と
大人しい存在感がいいだろうと思う。


そのうち、展示の時にでもこれを出すつもり。
誰か気に入るかもしれない。




mamenote1d.jpg



これはもう人手に渡った豆ノート。

これまでにない手のかけ方をした。というか、気を遣った気がする。
というのも、これは記念になるものだったからだ。

画家に新しい友人が出来て、その友人のために印象的なものを渡したいという話で。
二人がこの先、どのくらい仲良くなるかは分からないが、
"印象に残る贈り物"という大役に選ばれた、この小さなノートが一役買うことを願った。


後日談を聞かせてもらったところ、
新しい友人はとても喜んで、仕事中だったというのに一度家に戻り、
豆ノートを安全な場所に保管してきたという。
これに何を描こう?と、家族に相談した・・と嬉しそうに話していたようだ。


「俺には絵しかない」と、人生のどんな場面も絵と生きる画家がいて、
「絵が描きたくて何度も習ったが、描けない」と、諦めた新しい友人がいて。
そんな二人が友達になり、白紙のノートに少しずつ、何かが描かれていく。


ほんの小さな豆ノートは、ただの豆ノートではなくなった。
友達に贈り物をしたいという思いが宿って、その友達の心に思い出となって留まった。

こうした話を聞ける時、私は心から、作れることに有難さを感じる。





fewhoge



作る何かで仲良くなれる場面もあれば、
食べることで仲良くなれる場面もある。 


ちょっと脱線するが、私にも新しい友達が出来た。
そして彼女は、とてもよい来客となっている。
よく食べるのだ。 机に置いた皿のほとんどが空になる。
私は、よく食べる人が好きだ。 
たくさん笑って会話をし、おおいに愉しむことができ、食事を共に出来ることが嬉しい。

彼女はよく話してくれ、よく聞いてくれ、よく食べる。
時間が矢の様に過ぎる。 楽しくて心地よい時間を紡いでくれる。
こういう人といる時間は、心の健康に良いなぁとしみじみ感じる人だ。

良い人物に巡り会えたことに心から感謝している・・・





key-holder.jpg




アンモナイトを沢山見た、夏の終わり。
地層にぎっしり、アンモナイトの化石が埋まっていた。

何度さわったか、何度顔を近づけたか。どれくらい側にいただろう。
感動が止まることなく溢れ続けていた。
爪の先くらいのものから、人の頭よりも大きなアンモナイトまで、たくさん。
きっと誰もが驚嘆の声を上げ、その太古の面影に胸打たれる。

遥か昔に透き通る海をうようよしていたアンモナイトを想像して、
美しい、ひなびた黄土色のレリーフになった姿を見つめて立ち尽くした。



家に戻って、二つのちいさなアンモナイトを革で巻いた。
ぶつけても壊れないように、落としても割れないように、
そうやって四六時中、ポケットに入れて持ち歩くことが出来るように。





いろいろあった夏。

夏は苦手、と毎年ぼやき続けているけれど、
涼しくなって夏を思い出すと、実にいろんなものをもらった季節になっていた。


そして秋に入って、そろそろ最初の楽しみがやってくる。
今月末はハロウィンだなぁ。

また予想もしないような何やら、いろいろと出会うのだろうか。





mask1.jpg









スポンサーサイト

夏温度

.02 2012 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
d0802.jpg







雲は輝くように、真っ白よりもさらに神々しい光の色に縁取られて、
昼の空は、神様が刷毛で一塗りした、スカッと抜けるような明るい青。


何て空なんだ。


何て美しいんだろう、何てきれいさだろう。


と、思うんだけれど・・・
暑い。 この空の象徴するところは、まさしく夏空真っ盛り。




暑すぎる。 たまったもんじゃない。
こんなすごい暑さは久しく味わっていない。いや、毎年暑さには音を上げるんだけど。


よく分からないんだが、湿度があるというだけでここまでひどいのか。
海近い場所にある私の住まいは、信じられないくらい暑くなる。

海が近いことで、他の地域の人には爽やかそうなイメージもあるようなのだが、
いやいや、家の中なんて蒸し風呂に近いものだ。実際。
海からの風が気持ちよいのは、季節による。 確かに、潮風にうっとりする季節がある。

が、夏は違う。
私には、絶対違う。
 
夏の潮風がある日部屋に入ってくる時、それは宣戦布告をされたようなものなのだ。
・・・宣戦布告どころか、一方的に耐え忍ぶに徹するのが常だけど。


と、こんなことを毎年書いているような気がしないでもないが、
今年の暑さは容赦ない感じがする。
エアコンがない、ということがこれほど肉体を痛めつけるとは思わなかった、と
そんなぼやきがぼろぼろ出る日々だ。
夜寝れもしなけりゃ、日中に何か作業なんて出来やしない。
冷蔵庫の食料のいたみも足が早過ぎる。というか、それ以前に冷えやしない。

どうにかして何かしら改善しないと、危険だ。




こうなってくるとちっとも作る気が起きない。
頭に浮かべた側から意識が飛んでしまう。

この時期の乗り越え方をどうにか、どうにか考えないと。
秋が来てからでは、制作が追いつかなくなるだろう。
一年の後半は何かと作る用が増えるというのに。




だめだ。ご無沙汰の日記だというのに、弱音しか書けない・・・


ああ、どうぞ皆さん。
暑さに気をつけて、できるだけ涼しく時間をお過ごし下さい。

いっぱい食べて、どうぞ元気で。





たくさんの想いに

.11 2012 一人芝居の部屋 comment(3) trackback(-)
    



メモ帳に付け続けている日記の、ある日の一部を抜粋した。

何日か前のもので、たまに自分の生活の変化にうっかりネガティブになる時、
私は自分の家の中を見て、あることを想う・・・といった内容だ。

それは、沢山の人たちの作った作品にある。





・・・・・・私の部屋の本棚には、
銅板作家さんの作った、朗らかな豚の親子とクリスマスツリーが飾ってあります。
美しい色の銅の栞も本にあります。

お風呂場に行くとその存在を香りでまず知らせる、
西のお母さんが作った芳しい手作り石鹸もあります。

いまはもう連絡も絶った人のもので、
遠く地球の裏側から送ってくれた、かわいいフェルト作品も玄関にあります。

無名の外国人革職人のおおらかなラップトップ・バッグも額縁にかけてあります。

ほんの数日間、展示でご一緒したレース編みの人からの玉のようなシュシュは、
私の髪をよくまとめてくれます。

ガラス作家さんのマゼンタの色もアクセサリー箱の上にあります。

白木の棚には、先週末やってきた思い出を縫う人のお土産、
ウサコ人形もほのぼのした顔をして飾ってあります。

工具入れの缶に巻かれたレトロでデザインの良いラベルは、西のカフェの店長のもの。

私の携帯電話のケースには、職人さんが切り出した後のポケット用の革が使われ、
彼の作ったキーホルダーを毎日手に取って家の鍵を開け閉めします。

ローマの金細工職人の輝く小さなマリア様、
イスラエルのロザリオ職人の木彫りのロザリオは
私が毎日祈る相手です。

アメリカ人の詩人がくれたメモ一枚分の詩は、20年以上も私を励ましてくれています。



    
数えていけばまだまだ沢山ある『誰かの手作り』。

誰かが、自分の好きな何かを、
見たくて・作りたくて・一生懸命になったものが、私の家には溢れています。

    
そうした温もりのある重さに触れていると、私は実に恵まれていると思わざるを得ません。

    
なぜなら、この温もりある作品たちの側に生きていることによって、
私は自分の居場所を知らず知らずに確認していられるからです。
静かな力強さに満ちる、画家の描いた連山の絵が、
何枚にもわたって空間を取り囲みながら守ってくれる中・・・・・

    

・・・・・自分の作った作品群がひしめく部屋に生活し、
手作業を愛する人たちが制作した作品が、さらに色合いを強めて溶け込む場所があること。

私は自分が作り手であることの位置をちゃんと知ることが叶い、
信じていることも出来るのです。

これは実に素晴らしい足場であり、支柱であり、
安堵の椅子が置かれた場所ではありませんか・・・・・








革細工が以前ほど出来なくなったな、と時折悲しくなる夜もあるけれど、
そういう時、頭を上げて、立ち上がって部屋を見渡すと、
目に飛び込んでくる、たくさんの人たちの作る思いを見ることが出来る。

有名になった人もいれば、無名の人もいるし、
職業として成り立っている人のものもあれば、
自分の表現として制作を続けている人のものもある。

どんな人がどんな環境で作っていたにしても、全て、誰かの手の中から、
誰かの思いを受け入れながら出来上がった作品に違いはない。



それは私もまた、そうであるに違いないと思えば、
いま現在、若干革のもの作りが減った程度で悲しむなんておかしなことだ。

いつ作ったって良いだろう。

毎日じゃなくたって、ひと月以上隙間があったって、
出来上がるものの重みに差なんてないのだ。 仕上がりを気にするのは、その後の話だ。



時折。

疲労のせいか、何のせいか、不意に沈みかける心があっても、
たくさんの作家の、それぞれの思いを詰めた作品を手にとると、ふーっと消える。

みんな、いろんなことがある中で、この作品を作っているんだろう。
みんな、その人それぞれの荷がある中で、こうして素敵なものを作り出したんだろう。


そんなことを想いながら、一つ一つの物言わぬ力強い作品に引っ張りあげられている。


私も頑張らないと・・・と、思う頃には笑顔が出るんだ。




いつもありがとう。








anyone.gif





世話焼きの、手

.05 2012 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
uroborus1a.jpg





ここのところは作ることがままならない。
去年に撮った写真が幾つかあるので、それを載せておく。


作ることがままならない理由は、単に私が疲れているためだ。
寝不足や、他の人と関わる時間を毎日持ったことにある。

全く寝ていないわけでもないし、関わる人たちは親切な人ばかりだけど、
これまで一人分での時間が紡ぐ日々が一変したからなぁ。


早い話が、環境の変化というものだ。
時間が経てば疲れもなくなるかもしれない。
疲れに慣れる時、体の痺れが消えたり、緊張の張り詰めた糸が遊びを持ったり、
とっちらかっている散漫な集中力が一まとめになるだろう。

ついでに7月に入って暑さも加わっているから、
・・・・・・・体の自由が利くようになるのは秋くらいか。

いや、そんなに遅くないで何とかしなきゃな。






nk-braiding2b.jpg



そういえば、小さなものは作ることが増えた。

紐を切り出しておいて、ボーっとしている時に1本つまみあげると
特に考えてなくても勝手に編んだりするからだ。


これは私が、自分の習性に気がついての案だった。


私は一旦手に何かを持つと、なんとなくいつまでもそれで遊ぶところがある。
それはぼけっとしていても、全然関係ないことを考えているとしても、そう。

私の思考と手は直結していないらしい、と思うことがある。
だから何も思いつかなくても、紐なり切れ端なり、手に持っていると
自分でも意識していないうちに何かしら、形を変えさせている。

途中で気がついて、「おお、こんなことに・・・」と、ようやく意識が向く。


なので、瓶に紐を詰めておいて、飾りになるようなものも隣の瓶に入れておけば、
(そして目の高さの棚にそれを置いておくことによって)
私は小さい飾り物などを知らぬ間に(?)作っている。 

同じようなものが多いので、一々ここには載せないが。





j-beans.jpg




これは今年最初のほうで作ったものだ。

単純で、小さいもので、そして夢のあるものをと思って作った。
一つ一つはこの条件にきちんと収まっている。

絵本のようにしたかった。



写真が暗くて見えにくいのだが、それぞれアクセサリーになっている。
どれかをつければ、それなりの素敵なことが起るように。

まぁでも、豆のツルは身につけるの難しいかも・・・


こうしたものをもっと作りたい、と見るたびに思う。

さすがに単純といえ、こうしたものは意識が伴わないと作りにくいものだから。





g-top6a.jpg




いやしかし、頭や体に疲労が溜まると、いろいろと気がつくことがある。

頭で考えていても手が付いていかないのも、その一つだ。
気持ちはあるのに体が動かない、という、あれだ。
いざ作ろうとしても、机を前に肘を付いて「ふう~~~・・・」ともたれこむ自分が情けない。

年なのか、スタミナが少ないのか、どうも疲れが取れにくい。


でも逆に、こういう場面でもないと分からなかったとも思う。

先述したように、こういう時は頭で考えなくても良いらしい。
手が勝手に好きなことをし始めてくれる。
任せておいたほうがいいのだ、こういう時こそ。


私の手は、私の体の中で一番頼りがいのある働き者だと知った。





fish1a.jpg




手は実によく動いてくれる。

放っておいても、それなりに作ってくれるのだ。描くのも一緒。
意識が伴わないと細かい進み方などはしないけれど、充分、手作業の有難みに与る。

どこかで見たキッチン用品の魚の絵も、なんとなーく思い浮かべただけで
こうして紙に描いてくれる。 
こんな感じだったな、と思い出し、嬉しいので台所の壁にかけることに決めた。



思いつかなくても、体が意に沿って動けなくても、
その体の、最も意思を表現してくれる『手』の部分が、それを知っていてくれる。

これは意外なことだった。


シャーロック・ホームズのところのハドスンさんみたいだ。
ムーミンのママのようで、ドリトル先生宅のダブダブだ。



台所に連れて行くと(?)、おやつも作ってくれる。




okasi4.jpg




この手に、これまでどれくらいいろいろと夢見させてもらっただろう。

そんなことを感慨深く思いつつ、両手を見つめる。
手だって疲れているだろうにね。



働き者で、どんな時でも私を安心させてくれる、手の話でした。





runes1b.jpg






4月

.09 2012 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
haru.jpg





4月を卯月と呼ぶけれど、当てられた漢字の「卯」の花よりも、
沢山の生命が生まれてくるような『生』の文字のほうが、個人的には印象強い。


田植苗月ともいうようだけど、田植えは5月頃のほうがそうかなと思う。
昔は4月のほうが気候的に合っていたのかなぁ。

私の子供の頃は、近所の田んぼは5月になると柔らかな緑色を敷き詰めていた。
緑色のピンと背すじののびた小さな稲の苗を、農家の人が腰を曲げて植えていた。
一家総出で田植えをする風景をあぜ道から眺める時、
何となく近づきがたい、粛々としたものを感じたものだった。


とにかく、何かが始まるとか、生まれるとか、4月はそうした印象だ。



このところ虫も増えた。
暖かいから、続々と虫に出くわす。

壁を見れば、小さなカメムシがせっせと歩いているし、
窓を開ければ羽虫の類が飛び込んでくる。
ドアの開閉時は必ずといっていいほど、戸の裏か表かに誰かしら虫がくっついている。
知らないうちに屋内の植木の土にも、布団に寝そべるように虫が寛いでいたりする。
花が咲けばハチが飛び交うし、風に流されるようにチョウが舞う。
アリも寒さが消えたとばかりに、忙しなく行列を組んで食料を集めている。
イエグモの子もどこからかちょこちょこ出てきては、家中を見物している気がする。
・・・クモは虫ではないが。でもまだ5cmくらいのかわいい姿で気に入っている。



私も触発されたのか、虫を最近作っている。

虫の姿が目に入り始めると、特に好きというわけでもないにしても目が行く。
昆虫は興味深い形をしている、とよく思うのだ。

ほんの少し形が変わると、まったく別の虫のように見える。
これは魚にも鳥にも他の生き物にも同じことが言えるけれど、
でも虫は特に、(皆とってもよく似ていそうなのに)違いが顕に出る。

図鑑を開いて、丸一日×数日間を、昆虫の写真を見て過ごす。

暇な人だと思われそうだ。 しかし、暇は自分で作るものだ。
暇でいたければ、有り余る暇、は何もしないことを選べばそうなる。
私はよく暇人と言われるが、それはちょっと違うのだ。暇なままではいないもの。
動ける時間を用意しなければ、思いついても作れないだろう。言い返しはしないけど。



話を戻す。

図鑑の説明と、世界に散らばる昆虫の面白い姿を見つめていると、
外に出て観察したくなるもので。

里山や広い野原、田んぼや畑が身近にない環境が、こうした時は一層悔やまれる。
せいぜい近所の空き地に出かけて端のほうの雑草の中にしゃがみこむくらいだ。
それは世界の華々しい姿をした虫たちを、脳裏から遠く引き離す行為でもある。

日本の、それも空き地の端にのび始めた雑草の群れには、
そこにいて違和感ない姿の虫でないと生きられないのだから当然である。

そして、そんな地味ともいえる空き地の生息者の姿を見つける中、
とても感動してしまう瞬間が、大きめの強そうな虫を見た時だ。
カマキリとか、大きいカメムシとか(ある意味強い)、ハンミョウとか。
見やすいサイズというだけで感動する、このちっぽけな自分にちょっと疑問はあるが、
そうやって大小の虫を観察して、驚いたり楽しませてもらい、春の一日は過ぎていく。



家に戻って、革を切って、小さな虫を作り始める。

うまく作れないな~と手間取る時、空き地にいた虫たちが何だかとてもすごく感じる。
昆虫は、きちっきちっ、とした体をしているから、一見作り易そうなのだが、
私の不器用さが足を引っ張るのか、とにかくそう簡単に近づけないことを知る。

一匹作ると、次の一匹は、また違う姿をした虫を作りたくなるのだ。
6本の足と、4枚の翅、ふしで分かれた体を持つ昆虫類は、本当に面白い生き物だと思う。



一匹ずつ時間をかけて、一生懸命似せながら、
空き地にいた虫たちを4月いっぱい作っていこうと考えている。
出来上がったら、箱庭ならぬ箱空き地を用意して、虫たちの居場所を作るつもり・・・




皆様、良い春を過ごして下さい。




sakura1b.jpg





新年

.04 2012 一人芝居の部屋 comment(-) trackback(-)
0104a.jpg





新年になり、数日が経った。
最初の3日間くらいは、と思い、PCは閉じておいた。

普段から、私はテレビを観ることもないし、ラジオも聴かない。
そんな生活なので、静かに静かに元旦はやってきて、
静かに静かに新しい年が始まった。


やってきた新年は暖かく、雲が多くて、少し曇りがちな最初の日になった。
夜になると少し雨が降り、土は、昨年から続く連日の乾燥から年明け一番に救われて、
翌朝2日には黒いしっとりした土が朝陽にきらきらしていた。
かさかさになっていた土にも天の恵みが降り注いだ。

2日の日、私は海へ行った。
黒い岩場が広がる、太平洋に面した美しい海は、青く碧に輝いていた。
見渡す限りに何もない、水平線が一筆で書かれたような海。
強い風に背中を押されながら、砕けた貝で出来た浜をのんびり歩いていた。


昨日今日もあちらこちらへと近場に出ていた。

人は多いけれど、賑やかというわけではない。
家族連れが目立つけれど、正月の家族連れは老人も多かった。
皆が家に帰ってきて集まる数日間を、家族同士で聞こえる程度の話し声で大切にささやき合う。
それは稀に会話するわずかな時間をそっと守るように見えた。

きっとこの時期は、日本人にとって、特別距離が変化する時期なのかもしれない。


住んでいる場所が温暖な地域のため、風も暖かく、空気もそこまで冷たくない。
日が出ている分には、野良猫も観光客の来ない駐車場を、広々したマットレスのように使う。
正月だから、というのでもないだろうが、トビも鳴き声を早々に響かせることなく優雅に空を泳ぐ。
多分明日あたりからまた、笛の音のような声で歌い始めるだろう。

子供の頃、近所の子の一人二人は、羽子板なんかで遊んでいたが。
着物の子供の羽子板から外れた羽も落ちてないのが最近だ。

狭い路地に出ている子供は、大人顔負けのダウンジャケットと素敵なブーツを履いて、
もらったばかりのお年玉を自慢し合っている。
テニスやりたい~と話す足の長い女の子は、羽子板で遊んでも楽しいかもしれない。

海沿いでは、凧揚げをしている人が多かった。
凧はやたらと格好よく、風に乗る原理をつかんだ作りとやらで、名前は何とかカイトと呼ぶらしい。
黒や銀の翼を広げた何とかカイトが正月の空を誇らしげに舞っていた。

一日二日でおせち三昧に飽きた家族が外食へくりだすのを見越した商店街は、
正月早々、目出度そうなのぼりを掲げて元気に商売をしている。
おせちはおせち。正月はありとあらゆるご馳走が食べられる時、というのも定着した気がする。

いろんな形で、日本の正月は正月らしい変化をしている気がする。





カトリックで育った私は、お正月は何をするのか、どうするのかをよく知らない。
他所の子供たちが過ごしているお正月のあり方などを、お正月のイメージとして記憶しているのみ。

でも今年は、ささやかなお祝いの料理を少しだけ作ってみた。
おせち料理と呼ぶには如何せん届いていないものだったが、
本を読んだり人に聞いて分かった範囲で、そうした気持ちを込めて作ることは出来た。

そして藁や竹の飾りを家に付けることはしなくても、
自分の側で常にいてくれる見えない力に新年を迎えた感謝の祈りは捧げる。
ここから一年、どうぞ宜しくお願いいたします、と挨拶をする。


私は違う宗教だけど、この国は、豊かな顔ぶれで実に多くの神様が住む国。

人の世の流れが様々な変貌を目まぐるしく続けていても、
多くの神様たちは今昔変わらず、いつでも見つめていてくれる。
と、思う。



どうぞ多くの人に良い一年になるように。
守られていきますように。


心を込めて。 明けましておめでとうございます。







0104b.jpg





年の瀬

.29 2011 一人芝居の部屋 comment(4) trackback(-)
dragon1b.jpg





2011年が、もう数日で過ぎていく。


去年の暮れくらい、今頃の時期にトロイの木馬どうこうと慌てて、
そこから様子を見ながらそろりそろりと記事を載せてきたのだけど、
後半は月の何日かは載せられる様になってきた。ウイルスの心配はやはり終わったのか・・・
苦手なPCの扱いに、あれこやこれや何とか安全にしたいと頑張った気がする。



そんなこんなでここには書かないままで過ぎていった日々。
飛び飛びの記録をメモ帳には残しつつ、今日まで来た。

メモ帳を読み直していると、自分のその日その日が細かいところまで思い出されて、
頭の中では擦り切れた記憶が、日記になると細い糸で繋がっているノートのように思う。

引っ張れば出てくる記憶。
その糸が手元に残っていることで、そのままでは忘れたものもふとした時に呼び出せる。
メモ帳はPCにくっついている機能だから、
もしまた不具合が起きたらこれもなくなるんだろうけど、
その時はまあ・・・それはそれで良いのだろう。
現時点で今年を振り返ることが出来て、それだけで充分だ。




今年、誰に初めて出会ったのだろう。

今年、誰に影響を受けただろう。

今年、お世話になった相手は。

今年、一番感謝した相手は。

今年、会いたかった人は。

お別れした人は。

想い続けた人は。

無事を祈った相手は。



私はどこへ行こうとしていたのか。

どこにいるのを好んで、どこに行くのを拒んだろう。

行きたい場所はどこだったのか。

見つけた場所はどこだったのか。

新しく何を発見し、古くなった影を足元からちょきんと切ったのはいつだったろう。

心の中で消えていったものの姿。

心の中に生まれてきたものの姿。

何と一緒に過ごす時間が多かったのか。

何を確認して進んできたのか。



一年ごとに、何かは変わる。

善かれ悪しかれ、訪れるものもあり、また自分から手を触れるものもある。
単位一年では、本当は多すぎるかもしれない。もっと頻繁なものだろう。

ただ、一年という暦の上でふと振り返って見た、後ろにある日々を、
自分が何かを大事に想いながら生きて過ごせてきたことに改めて感謝する。

それは簡単じゃないんだ。
自分一人の頑張りや意識だけで何とかなることなんて少ないのだから。
頑張りも意識もあって動けるものだろうが、
支えや手助けが舞い込んでこそ、可能だったことは一体どれくらいあっただろう。
何かを大事に過ごしたくても、それが一切ことごとく出来なくなる時だってある。
それを思えば、今年、私が自分の想いを大事に過ごせたことは、
多くの見えない力や、見える力に助けられてのことだろうと思う。



丸一年。 これは過ぎた一年を思えば回想のひと時でも、
現実には実に長い時間をもらっている。


次の年、どのように何が現れるかは分からなくても、
どのように何を現そうと試みることを大切にしたい。

生きている時間は、常に後手に回るものだ。
与えられて、与えて、人の世を流れていく時の川。
瀬に船をつけて、流れる川の進んできたほうを見やって一息つくこの時期。

繰り返される日々ではなく、与えられている日々であることを
来年も自覚していきたいと思う。






良いお年を。






dragon1e1.jpg







休日

.03 2010 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(-)
1203.jpg



休日だからといって、特に何があるわけでもなく。

少し出かけて人と会う時間があったくらいで、後はあまり変わらなかった。



朝、小さな芽の出た子供コーヒーの木を小さな鉢に移した。

その後は明日の準備。
絵を何枚か持って行って、もう数点作品を追加するつもり。
絵はただの紹介で置いておくのみにしようと思っているけど、
作品のほうは販売できるようにと思い、少し手を加えるものもあった。


そうこうしているうちにすっかり昼になり、
時間になって出かけ、人と会った。



夕方、帰り道にふと思う。
私は今どの辺にいるんだろうな、と。

ちゃんと進めているのかな、と思う。

間違いながら紆余曲折で現在に至るけれど、
決心はちゃんと形になって進んでいるのだろうか。

いろんなものから離れて、たくさんの繋がりを切って、
今を生きている自分がいる。


たまにはうっかりすることもあるかもしれないけど、
それでも軌道を確かに見据えていたい。
横道に反れたり、言い訳をして間違えを認めないようなことにはなりたくない。

全てのために。

真っ直ぐでありたい。


ちゃんと生きていきたい。


今、ちゃんと生きれているかな、と夕暮れの空を見ながら思った。
確認の方法が分からなくても、自覚が確かなものであるように。


羅針盤と舳先は合っている。
航路もあっている。
幾つの海を越えたかも数えていない人生だけど、だだっ広い海原をしっかり進もう。


そんなことを思いながら強い風に吹かれて歩いた帰り道。



明日が良い日になるように頑張ろう。





1203a.jpg






失敗だらけの日

.10 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)



今日はやることなすこと失敗に見舞われた日だった。
なので、作ったものの写真もない。

取り組むことがいちいち「なんで?」と思う終了の仕方をした。

こういう日は私は滅入りやすいのだが、
どういうわけか今日はそう滅入ることもなかった。
失敗だらけの日、なのに、滅入らない日。

今日は変な感じがする。



朝起きて、体調が微妙だと気付いて朝食後に薬を飲んだ。
そして計画中のことをノートに書かなきゃと寝転がったら、眠ってしまった。
ふと目が覚めたらもう昼近い。

わぁ、と思ったけれど、過ぎた時間は仕方ない。
午前も遅い時間、日課の家事をそそくさ終わらせて、
漬け込み中の皮の様子を観察した。

そろそろ大丈夫そう、と思って木枠に皮を一枚取り付けたのだが。
生乾きになってきた頃にまだ硬い気がして結局漬け込み容器に戻す。

午後いっぱい、皮のことをしようと予定していたため、
変に空いてしまった時間をどうしようか考えた。
時間は中途半端でそれほど余っていない。

じゃあ小物を作っておこう、と牛革を出して作り始めたのだが。
これがまた縫うだけ縫って失敗する。 
具体的な失敗理由ではなく、小さな要素が少しずつ重なった失敗。

少し悪あがきはしたものの、やはりどうにも挽回できないので諦めた。

その後夕食を作るが、私には珍しくちゃんと量って作った料理の味が変。
料理くらいはと、きちんと間違えようがない方法をとったのに。
「なぜ~???」と思うけれど、3つの料理が3つとも味が崩れた。


唯一、まともだったのは、適当に作ったアップルパイだけだった。
何も気を遣わず、何の注意もせず、目分量で作った本当に適当なパイだけが
どういうわけか知らないが今日一番になるなんて。

アップル・パイを食べながら、つい笑ってしまう。
不思議なものである。





こんな日だったけれど、滅入らなかった理由は何となく思い当たる。

私は今日、ずっと一つのことを考えていたのだ。
ボーッとしていたわけじゃなく、頭の中で何かにつけてそのことが浮かんだ。
考えていたのは、子供の頃に知っていた人のことだった。


シスター・ルチアという人がいた。


急に思い出したような感じなので、それも不思議なのだが、
幼稚園の時から小学校低学年までの記憶の人だ。

シスター・ルチアはスペイン人で、日本語を話して、眼鏡をかけていて、
痩せていて、髪の毛がクルクルした金色で、優しかった。

私が幼稚園の時に会ったのが初めだと思う。よく覚えていない。
シスター・ルチアは度々会うくらいの頻度だったが、姿を見つけると嬉しかった。

最後に姿を見たときを覚えている。

小学生になって2年生くらいの年だったか。
家族で行った教会の帰り、車に乗り込んだ私にルチアが縫いぐるみをくれた。
車のドアを閉めようとした時、ルチアが「ちょっと待って」と小脇に隠した縫いぐるみを出した。
黄色いタヌキの縫いぐるみで、笑いながら「これあげるね、かわいいでしょう」と言っていた。
ひょうきんなタヌキの姿に私も笑って受け取った。
でも他にも子供達がいるのにどうして良いのか、私が一瞬じっとすると、
ルチアはそれを読み取って、「いいの、内緒ね。あなたにあげたいからね、内緒よ」と小声で言った。
私は何度も頷いて、ルチアが車のドアを閉めた。

ルチアはその後、もう教会に来なくなった。
しばらくしてすい臓癌で亡くなったと聞いた。



シスター・ルチアは病気の時も沢山の人と喋っていた。
元気に笑って、時々咳をして、「大丈夫、大丈夫」とまた笑っていた。

私はルチアがどれだけ頑張っていたのか、その時は分からなかった。
病気の名前を聞いてもよく分からなかった。
どこが悪いのか、どうして治らないのか、それも分からなかった。

私の目が見ていた時。私の耳が聞いていた時。
シスター・ルチアはいつも笑っていた。

体のどこかに水が溜まってそれを抜いた手術とか、そういう話の後でもルチアを見ると忘れた。
ルチアが笑っていたから、私もただニコニコしてルチアを見上げていた。
そうやって、最初に会った時から最後の時まで、笑っている姿を見ていたと思う。




滅入らない理由にこの話しがあるのか、というと何の関連か実は分からない。
今日ずっとシスター・ルチアのことを思い出していた、というだけで。

だけど失敗しても、嫌だなと思っても、困ったなとかあれこれ思っても、
どこにもしかめ面を挟む気になれなかった。


いつも笑っているってどうしてなんだろう、と思いながら、
いつも大丈夫って笑顔だったのはなんでかな、と思いながら、
今日は失敗だらけで笑っていた日になった。


次も笑っていられるようになりたいな、と思う。






pie.jpg




11月になって

.05 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
yakan.jpg




朝が10度近くまで下がる日が続いている。

数日前からストーブを出して灯油を買って(まだ高値)
朝晩はストーブの世話になり始めた。

こうなるとやかんが沸きっぱなしでお湯に困らない。
一日に何杯お茶を飲むのだろうと思うくらい飲んでいる気がする。
いまはまだ秋なのだろうが、もう秋も終わる気配。




この数日間体調が崩れている。
鼻炎の悪化の為、何もろくに手が出ない。


夜間に何度も息が出来なくなって目が覚める。
鼻が詰まって息が出来なくなり、ひどくなると喉もふさがれてしまう。
慌てて起きて対処をするも、息が詰まるとなると眠るに眠れない。

鼻一つで散々である。

子供の頃、鼻炎持ちの人がティッシュの箱を抱えているのを見たことがあるが、
私も今は同じようなことになっている。
ティッシュの箱が1日もあればなくなってしまうのだが、
大事に使ってもそれが避けられない。


鼻炎はすさまじい。 笑えない。
表に出て仕事をする人だったら、本当にくたびれると思う。

どんな箇所でも症状がひどくなると手に負えないもの。

とりあえず呼吸だけでも確保したい・・・





今は皮を観察中。

皮の変化に勉強が多くて、毎日ノートに書くことがある。
でもそれは翌日になって抜けていることがあったりするようなあやふやな感じ。

自分で知るっていうのは、行ったり来たりなんだろう。

無駄にならないように気をつけるが、
もし失敗が皮自体を痛めたら捨てることになる。
失敗も経験に入れるものと分かっていても
捨てなくて済むようにしたい。

皮は大事に扱いたい。



鞣革のなめし方で現在2種類試している。

どちらも科学物質を使っていないので、ゆっくりゆっくり。
途中失敗もあったけど、やり直しができる範囲で何とかなった。
別のなめし方も行なってみようと思うが、
それは予算の関係上ちょっと後のことになりそうだ。

今は進行中の皮がちゃんと完成するよう頑張ろう。




 HOME 

プロフィール

ea

Author:ea
EA/ 絵描き・端革細工作者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

最新記事

カテゴリ

HP・端革細工の回廊

Gremz

クリック募金

National Geographic

天気予報

天気時計

Amazon

日本語→英語

最新コメント

RSSリンクの表示

リンク

検索フォーム

月別アーカイブ

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。