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天にまします

.22 2009 革の部屋 Leather comment(2) trackback(0)


十字架は売り物で作らないと書いたことがある。
何か、想いのある時に作る対象が十字架。

私はカトリックで、生まれて間もなく洗礼を受けた。
遠目から写された、司祭に祝福されている赤ちゃんの写真で自分の洗礼を知るのみ。
物心つく頃には日曜日は教会に通う、カトリックの一家だった。


一生分の聖書の説教を聞き、多くの信者の笑顔を見上げてきた子供時代。
その後、私は小学生の高学年くらいから、単一神の疑問や他の宗教との違いや関わり方を調べ始める。
中学生の頃には、幼児洗礼をなぜ勝手に受けさせたのか?と母親に質問したことがある。

私の宗教への質問に答えを出してくれる相手は、たったの一人もいなかったからだ。

神父様でさえ、当時の私の質問をうっとうしそうに払いのけた。
私はその時を境に、あらん限りの罪に手を出し始めた。
がむしゃらに、やけくそに。


10年後くらいか。
私は疲れ果てて放蕩息子のように、カトリックに戻ってきた。
だが、教会に毎週行かないし、信者繋がりも嫌った。
神様の存在は、どこに居ても、ある、と気づいたからだ。


今。
私は30半ばだ。
今の私が当時12の私に訊ねられたら、『全部を聞けるなら何でも答える』と言う。

それが、ある一人の解釈だろうがなんだろうが、現実に探求して集めた真実だということだ。
真実は現実の中にある。
現実だけを見ていても真実は見えないが、現実を放射状に開いたとき、『中身』が見える。

気づかなくても見て見ぬ振りをしても、現実を練り歩いて執拗に追いかけてゆけば真実は現われる。
それは『答え』を通り過ぎていることもあれば、『答え』へのソースであることもある。

知らなくて良いこともあるだろう。
だが、知らなくては天に祈る顔もないときが多い。



十字架は、ある人の話を聞いて作った。
その人は深い心の傷が膿むと、折角集めた宝石の記憶が霧散してしまう。

愛されたことのない人生に、愛されることを受け入れきれない障害が『傷』。

これだけでは実に足りない説明だ。
だけど、ここに事細かに書くような無分別なことは出来ない。

深い心の傷のせいで、果てしない孤独を背中にしょっている。
人の温もりをほしいと思っていても、人の温もりの先が怖いのだろう。
一度でも温もりの中に安心してしまったら。
失う時、突き放される時、壊れる時、否定される時、ため息をつかれる時。
それを敏感に感じると、怖さのために、それまでの前向きに集めた嬉しかった時の記憶や楽しかった時の記憶を投げ捨ててしまう。

この人の流れっぱなしの涙。

この人は神様なんて信じないだろうけれど、私の知るところで、神様はいる。
この人の涙の一滴の落ちる音だって、神様は聞いている。
聴こえているんじゃない。
聞いてるんだ。


私に何が出来るのか、まだ手探りだが、この人の涙がしょった十字架に神様の祈りを刻んで届けようと思う。
祈りは、宗教から来たのではなく。
祈る人が本気で祈ったから宗教がある。

本気の先、人以外の大きな大きな存在が、人の為す範疇を軽く超えて佇んでいるのを感じているから『神様』は祈りの先にいる。


この人の涙が、あいまいに乾くことなく、喜びの日に乾くように。
私が代わりに祈るよ。

祈らせてください。



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