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水と土の生命

.07 2009 一滴の栄養の部屋 comment(0) trackback(0)

この地球に生きている生き物何一つ、水と土から切り離して考えてはいけない。
と、日々感じる。


空気や光もなくては育たない。

当たり前に知っていると思っている現在のほうが、当たり前に知らずにいた古代よりも、
常に生命の繋がりを感じられなくなっているのは何でだろう。


地表、というのはフットボールに貼り付けた切手くらいの厚さだと思えばいい、
とある学者が言っていた。
そのくらい、地表とは地球に対して薄い膜のようだ、と。

その薄い膜があって、生命が生きていられる。


生命は循環している。

土に撒いた農薬が、土のなかの生き物を殺してしまうことは知っているだろう。
もし、死ななかったら。
化学薬品を取り込んだ遺伝子が次世代に受け継がれる。
その時、その化学薬品は果たして何の変化もしていないままだろうか。

命は繋がっているのだ。
その次世代を食べる相手がいる。体内でどのように変化したか分からない化学薬品を、食べる捕食者が。
その捕食者もまた、大きな捕食者に食べられ、と続くだろう。
無論、食べた後に糞は土に落ち、その糞がまたバクテリアや菌類を介して土になっていく。

忘れてはならないことに、この影響力がある。

土、土、と言ったところで、どのくらいの土を大まかに想像しているだろう。
土の小さじ1杯程度の中にいるバクテリアは何十億という数になる。
ここに菌類もいる。これも何十億という数で。
このバクテリアや菌類がいないと、無機物には還元されず、炭素や窒素をとらえる循環は切れてしまう。
切れるとどうなるか。
空気の窒素では植物は窒素を取れないから枯れていく。

これが、足元一体の土で変化を起こすとしたら。
それがどれほどの影響を及ぼすのか。


日本人なら想像しやすいだろう。
放射能の影響だ。
これと農薬や科学薬品を比べるなと思われそうだが、随時使用され続ける上に、薬品知識のない一般の人間にも出回っている化学薬品となると、比べ物にならないとは言い切れない危険がある。
いや、その種類と手軽さによる頻度の影響は、放射能とはまた別のひどく恐ろしい結果を招き続けているのだ。


害虫だけに効くなんてこと、誰が確かめたのだろうか。
害虫と一緒に害をなさない虫も死ぬだろう。畑の作物にかかれば、作物も殺虫剤を取り込んで収穫を迎えるだろう。
食べるのは誰の口で、消化して取り込むのは誰の体か。

バクテリアを生活から追い出すために台所用の除菌剤を撒いて、手を汚さずに綺麗になったと言うが、手にかかったら炎症を起こすのではないだろうか?
それが流れていく先はどこだろう。
それを流している経路に生き物はいないから大丈夫とか、生き物がいたとしても人の生活に悪影響を運ばないと、誰が証明したのだろうか。

遺伝子に食い込み、遺伝子異常を引き起こし、新しく生まれてくる生命に変化をもたらすのだ。
それを食物連鎖が回していく。
その時に化学変化を起こして、化学薬品が濃度を高めて移動していくということは既に起こった。

農薬や殺虫剤を受けたままの状態で、見た目にきれいな土や河川に戻れば問題なくなるというほど、人の都合の良い土壌ではない。
そんな危険なものを、都合で使い放題撒き散らしている多くの家庭が、自然に対して何の影響も出していないと無関係を装えている現在。
規模的には、そして持続されている時間としては、農薬や化学薬品の日常生活が成り立っていることは、とても広範囲でのダメージとダメージの蓄積を生んでいる。
放射能も消えるのに時間がかかり、そのダメージは恐ろしい。
人が作り出したものは、自然が消し去るにはあまりにも重く、あまりにも被害が広いのだ。


自分は関係ないから、と思えるなら、その人は土と水を切り離して考えているのかもしれない。
その切り離しから、自らも切り離している。



結構前なんだけど、記憶に残る話を読んだ。

ある部族の青年が、鹿ととても仲が良かった。
その青年はある日、部族の儀式で鹿を1頭殺して持ち帰るように言われる。
心が締め付けられるなか、こんな儀式なんて!と部族のしきたりを軽蔑しながら、青年は鹿を殺して持ち帰った。
その鹿を置いたら、もう部族からは離れて町で暮らそう、と考えながら。

青年の帰りを待っていた、お祖父さん(だったか、おじさん)が、微笑んでいた。
青年は憎々しげな眼差しでその人をにらんで、鹿をどさりと置くと何も言わずに立ち去ろうとした。
するとお祖父さん(おじさん?)が青年の背中にこう言った。

『その胸のなかの気持ちを、今お前の足の下にある草1本にも持つように。』

青年はそこで気がついた、という話。



この話を読んで、『ああ、こんな教え方が継がれるような場所は素晴らしいなぁ』と感動した。

見えないものは何も「あっちの世界」だけではない。
自分の足の付く場所さえ、肉眼では決して見るも叶わぬ世界があり、それが私達を遥か昔から休むことなく支えて生かしている土台になっている。

水の中だって、魚や貝や甲殻類や、そんなに大きな生き物が支えられているのは、私達が潜ったところで目に映らない小さなプランクトンや藻類がびっしり生きているからだ。





自分達が生まれて死ぬまでの間、それは個人差だけど。
一体どのくらいの循環によって生命が次の日まで繋がっているのか。

この命は左右にも上下にも裏にも表にも、決して途切れない命の握手があってこそ次の日に生きることが適っている。


だから、いつだって、毎日だって、自分以外の生命と育む母体を大切に感じていないと生けない。








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