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想像力

.28 2009 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(0)


何もファンタジーの話じゃない。

いつでもそばにある想像力のことを考えていた。
日常的であり、生活の一部であり、生きている上で使う想像力のこと。



あるニュースの記事で、そこに寄せられた一般の人の言葉を見た。

記事の内容は、自宅で亡くなったお母さんの遺体を捨てた男の人の話。
当然彼は犯罪者として逮捕されているのだが、この男の人は年齢が50代。
そして無職だったとあった。
お母さんが亡くなってしまって、葬式費用もないのでどうしていいか分からずに捨てに行った、というようだ。

記事に詳しいことが書いていないため、なんとも言い難いものがある。

一般の人から寄せられた言葉の一つに、ちょっと気になるものが見えた。
その言葉には、『国民健康保険に入っているなら、市役所に行って相談すると力になってくれる・・・』と書いてあった。


私はこの人の言葉を見て、この人は親切な人なんだろうと思った。


でも、と止まる。
この事件の男の人は国民健康保険に入っていないのではなかっただろうか、と私は思った。

だって「無職」、と記事にある。 「無職」で、「葬式が出せない」。
50代の男性が無職であるということ。そして、お母さんが幾つか分からないが、70代から80代ではないかと思われること。
どのような原因で亡くなられたのかは分からないが、とにかく無職でお金がない状態であった息子は母を病院に行かせることも出来なかった最期だった。

ということは何となく分かる。


多分、国民健康保険のお金なんてとうに払えなくなっていたのではないかと思った。
滞納や未納になっていたかどうかも分からないけど、この男の人が市役所を頼れなかった理由は何だったのか。
その理由には、この人が役所の業務を確認しなかっただけか、それとも行ってもどうせ無駄だろうと思う節でもあったのか。

内容が分からない以上、誰にも分からないことだけど、もしかしたら何処にも寄る辺ない境遇にいた人かもしれない。


そんなことを思っていた。


また、この前、日本が景気が悪いなんて見えない、といった人の言葉を耳にした。
そうか、と思った。
その言葉をいった人は、普段は海外に住んでいて久しぶりに日本に帰ってきて一月近く滞在したという。
その間毎日友達と会って、色んなところで食事をして、久しい日本を満喫したという。
そうして歩いている道で擦れ違う人、賑わう年末の通り、それを見ている分では景気の悪さなんて感じなかった、と言っていた。


そうかもしれない。 
もしも私が海外に旅行に行ったら同じように感じるかも。

例えば昔に住んでいた国があって、そこへ久しぶりに出向いた期間。
訪れた友人も笑顔のたえない冗談で話し、子供が増えたり家族が増えたりしている変化を見る。

表へ出れば買い物へ行くとか食事をするとか、昔懐かしい場所を歩くとか。
いちじるしい変化でも無ければ、分からないままのことなんていっぱいあるだろう。


そうか、と思ってその言葉をなぞった。

そして振り返ると、遊びに来ていた友人は薄っぺらい就職情報誌のページをめくっている。
かれこれどのくらい、不遇の環境で働いて切り捨てられて生活がままならない年月を過ごしていることだろうか、この人。

豊かな生活をしている人には見えにくい、悲しくも無言の「層」は確かに身近にある。



私の知人は数少ないが、中には裕福な人間もいる。

裕福な人を羨むことがないので私はあまり気にならないが、裕福な人から見たら「どうして?」と聞きたくなる出来事や考え方があるらしい。

嫌味か蔑みか、と思うくらい驚くことを聞いてきたりする人もいるが、それはどうも違うよう。
本当に理解できないという。

その人たちが億万長者かというとそれは全く違うけど、そういう人たちと話す時は非常に考えることが多くなる。


裕福な人にだって困っている事柄はあると思うし、抱えて過ごす苦しみもまた別の形で存在している。

だからただ単に、生活形態が違うだけの悩みであり苦しさであり、という話なんだけど・・・



こうした話はデリケートな部分が多い。
一人一人の個人的な意見を出しっぱなしにしてしまえば、とんでもないことになるだろう。

でも人と接する時に、その都度思うことがあるとしたら、それは相手がどういう人であり、どういう立場にいるのかを忘れないということだ。
私の場合は、なんだけど。
他にもっと良い方法があればそうした注意もしたいと思うだろう。


見えない相手について何かを語るのであればそれはもっと注意が必要で、見えている相手と会話するよりも困難だ。
見えない相手だから自分の知っている範囲で、というわけにも行かない気がする。

知らないから、見えないから、悪く思う前に知ろうとする気持ちが大切なのかもしれない。
逆に、良いと思う前に何故良いのかどうしてそこではそれが良いと感じるのかを想像する気持ちが大切かもしれない。


想像力が薄れてくると、人は自分のことだけを見つめるようになるという。

他人や他の生命に配慮が消えてくるのも想像力の欠如ではないかと。
我が身に起きた時のことを考えても、「自分は大丈夫」と答える人は少なくない。

しかし実際に例えに出した事柄が突然降りかかってくると、精神的に大きな損傷を残してしまうことがよくあるそうだ。

想像力はレッスンだ。
子供のときにレッスンを受ける機会を逃していても、大人になってからだってレッスンは出来る。

どんな場面でもどんな人であっても、どんな命であっても、相手が物質であっても、『相手』となる対象について思考することがレッスンになる。
自分の好き放題で考えるのではなく、相手の状態や環境を傍らに、相手を見つけていく感じかもしれない。

思い込みは避けなければならないが、自分とは異なる対象が自分と同じく存在していることを常に理解しようと努めることは大切なことだと思う。




ここのところ、そういった出来事に遭遇することが多かった。

想像力についていろいろと物思う時間が過ぎた。
自分がきちんと出来ているかどうか、ふと気になった。

少ない人たちとの付き合いの中、そのなかで自分が想像力を常に携えて一言を発し一動を成しているか。



痛みを知るたびに、この痛みと同じことを自分もしているのではないかと立ち止まるのだ。








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