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作れなかったこと

.05 2010 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(0)





子供の頃から好きでいたものの一つに、お伽噺がある。
魔法や妖精や龍や秘宝が溢れかえる話。

私はそういう意味では、非常に子供らしかっただろう。


それは未だに何も変わらない。 





今日も何も作れないまま過ごした。
作ることが毎日のようなところがあったのに、それが突然消えてしまったような気分だ。
今日は机の前から離れなかった。
日が暮れるまで、机にいつもの道具を出したまま、ぼんやりして過ごした。

途中、少し取り乱しそうになったが、自分を落ち着かせて原因を考える。
それでもこれといった理由は見当たらなかった。

「多分・~だろうか?・~かもしれない・もしかすると・・・」
の繰り返しだ。
はっきりなんて定まりはしない。


机にぺったり顔をつけて考え続ける。
脳裏に一言、何の気なしに浮かんだ言葉。

『妖精なんか信じない、と誰かが言うと、そのたんびに妖精が一人死ぬの』


ああ、ティンカー・ベルの言葉だ。 と、思った。

何で今、この言葉を思い出したんだろう。
でも、と思う。
私は信じている。

私はずっと信じているなぁ、といろいろ思い出し始めた。





幼稚園の頃くらいだったか。 私は記憶にないが、母親が言っていたことがある。

庭で天使と遊んだ、と私が話していたことを。

庭で遊んでいるのを眺めていた母親は、小さい私が何かと愉しそうに話しているのを見ていた。
10分くらいだったのか、それほど長くない時間だったけど、『あ~、楽しかった』と戻ってきた私に誰と話していたのか訊いた。
私は『天使様』と答えたそうだ。

天使?と母親が聞き返すと、私は『そう』といって、羽があったもの、と説明したらしい。
その後私は天使の絵を描いて、母親はそれをもらったと。



同じくらいの頃か。 幼稚園の通園の時、バスの窓からはげ山を見た時。

私は魔女を見た。これは記憶に今もある。

はげ山の上に一本立っていた枯れた木の周りを、トビより大きな黒い鳥に乗った変な格好の人を見た。
あんまりびっくりしたから、横に座っていた母親を引っ張って、証人になってもらおうとした。
なのに、母親は引っ張られた服のほうに目がいってしまって、その間にバスが動いてしまった。
私は信じてほしくて、後ろの席に急いで連れて行こうとしたけど、母は案の定笑って済ませた。

魔女じゃなかったとしても、鳥に人が乗っていた、というだけで充分記憶に焼きついた。



小学生の時は、一緒に遊んでいた子供が一人いなくなったことがある。

しょっちゅう、畑の横の道で遊んでいた私や近所の子、数人。
ある日、みんなでカゴメカゴメで遊んでいた。夕日になってきたから帰ろうとしたとき、3人しかいない。
皆で顔を合わせて、『バイバイ』と振ろうとした手がぴたりと止まった。

あと一人、いたはずだ。と。

でもどうしても思い出せないし、誰だったっけ?と言っていても埒が明かなかった。


この体験は2回ほどあった。





私は不思議な存在というのを信じる人間だ。

不思議な存在が集う場所もあるだろうと思っているし、自分たちのいる世界ではない世界があったところで当たり前くらいにしか思わない。
見たことがあるとかないとか、痕跡があるとかないとか、そのくらいのことで『ない』と決め付けるのは無理が多い気がする。

だからといって闇雲になんでも信じるわけでもないが。
世の中には、信じる人を利用したり悪用しようとする下衆がいる。


体験に基づいた信頼性なのかもしれないが、子供の頃に出会った出来事を今でもそのまま信じている。









大きくなるにつれ、現実というものの様々な面を見て生きてきたが、そうした現実味の妙な濃さの中でもお伽噺を信じ続けていた。

こういう性格だから、お伽噺の実体やら年代や歴史や、宗教から民族観、風習や日常生活等を調べ続けた。
それでも、信じることを奪うような決定的な何かを見るときは来なかった。

私は知らないよりは知っていたほうが良い、と思う性質だ。
例え傷ついても悔やんでも、知らないでいるよりはマシだと思う。
だから調べ続けたのだ。


そしてはっきり分かったことは、不思議な存在がいることのほうが自然だ、ということだ。


全く信じない人間がいるのと同じくらいの可能性で、不思議な存在もいる。
ただ単に、信じようと思わない人間の五感に反応が起こらないだけの話らしい。

私は霊能力といわれるものは多分ほとんどないと思うが、それでも不思議な体験はした。

子供の頃じゃなくてもそういう体験はあったし、それは私が現実に追い回されて荒んでいた時だってあった。




長くなったけど、私の作れなくなった原因が何となく見えてきた。

ずっとそういうことを信じていると、たまに『本気で信じているのか?』と訊かれる。
そうだ、と答えると途端に引かれる。

そういうことを質問する人が最初に「自分も信じているよ」と言うのは、あくまで『夢がある』、という意味でらしい。
現実にはないから、夢があったほうが楽しい、と。
それはそれでいいんじゃないか、と思うが。

こういう人にとって、私が作り出すものや描く絵は初めの内こそ興味を持たれるようだけど、
段々『コイツ本気で信じてるのかよ』と思い始めるようだ。
すると、現実を直視できない未熟な大人だと、妙な貼り札を私に付ける。
そのくらいまではまぁ、構わない。 他人の僅かな情報で人を量るような輩に何も説明する必要はない。

だけど、なぜそのことをわざわざ私に伝えるのだろう。

なぜ、否定して今度はマイナスに扱い始めるのだろう。

そんなことをしなければいられない、何があるというのだろう。



この状態に入る前に、私はその否定をくらっていた。

こうしたことは人生によくあったことで、初めてそういう目に会うわけでもないから私自身、いつものことくらいにしか受け取らなかった。
私は極端に傷ついたわけでもないのに、なぜかその後から作れなくなっている。


そしてマイナスの扱いをされても、今後に響くようなものはなかったのが今回の?だ。





私の心のどこかで、否定されたくなかったんだろう。

私自身がよく分かっていなくても、信じていることに対して否定やうそつき呼ばわりされたくなかったのだろうと気付いた。
なぜ信じているだけで、そんな扱いをされなければいけないのかは分からないけど。


そうしたものを作りたくて作っていただけで、信じていることを喋っただけで、嘘だという人に対して「嘘じゃないよ」と自分の思うことを言っただけだ。
訊かれたから答えた。
誰も傷つけていないのに。


その人にとって、別に何の損もしていないはずだ。 



よく分からない否定に反応して、この手を止めたのかもしれないけど。

それが原因だったら、嫌だなぁ。




ティンカー・ベルは信じてくれないと死ぬ、って。

そうだね。
信じないことが何か消しちゃうのかもしれない。



だとしたら、もっと強くなるよ。

もっと頑張ろうと思うよ。








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