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ロザリオの時期

.24 2010 革の部屋 Leather comment(2) trackback(-)



今は四旬節といって、復活祭の前の時期。

平日で水曜日と金曜日は重視されているようで、食事に制限がかかるのもこの時期の習慣。
今日は水曜日で、朝から水分のみだ。

来週は聖週間(だと思う・・・)に入るから、もっと意識することになる。


私みたいな、いい加減なカトリック信者でも、この時期は何となく気持ちに変化がある。




今日作っていたのは、ロザリオを見ていて作ろうと思ったもの。

残念ながら、ロザリオというのは珠なので、革で作ろうにも現在の力量では無理。
だからロザリオを作るには至らなかったが。

ついで気になることといえば、革は肉の副産物。
つまり肉食を禁止しているこの時期に『革のロザリオ』はどうかなぁ、と思いもする。


でもいろんなことを頭の中で思い出していると、今日はこうした十字架を作ろう、となった。










ここから先は、胸の内を長々書くので、時間と興味のない人はここまでに。
相当長いから。





傍から見れば私はどう見えているか知らないが、私は別に『信者』という言葉さえ本当のところ好きじゃないのだ。
説明をいちいちするのが嫌だから、そういう面倒を省くためにこの言葉で済ませているだけ。

信じているものがカトリックの教えだとかキリスト教だとか、そういった枠は私の中では非常に曖昧だ。

神様のことは信じ続けているが、それ以外のことを熱心に没頭する気にはなれない。


熱心な信者を擁護する人々から見たら、私はとんだ不信者だろう。




生まれた時に、そんな意識もないまま幼児洗礼を受けた自分。
名前さえ(現在の名ではない)、聖書だか聖歌だかから引用して付けられた名前だ。

日曜日になると教会へ連れて行かれて、意味も理解できない難しい祈りの言葉を覚えさせられた。
そのうち聖書の朗読や聖歌を歌うように日々の日課の如く、繰り返される時間が来た。
食事の前には祈ること、夜眠る前には聖書を読み、聖歌を歌う。
神父に「様」を付けて呼ぶ。(『神父』は仕事の名称だというのに。)
聖書の教えに背く行動は全て体罰と侮蔑の悪態を持って対処された。

何の疑問も持たないわけがない。

前にも書いたけど、私は結構早くから反発を覚えていた。

その疑問を質問にすると叱られ、反抗し始めると今度は『屑』呼ばわりされ、そうなると人格そのものを否定される。
家の中でこんなことが四六時中起こるのだ。誰が信じる気になんかなるんだろう。

教会へ行って神父に聞いたところで、親と同じ反応が待っていた。
冷たくあしらわれて、適当に『そういう気持ちがいけないんだ』くらいの丸め込み方だ。


こうなるとただでさえ天邪鬼な私は、中学生になる頃にはすっかり気持ちが離れていた。



でもそんな反抗丸出しの私でも一つくらいは否定しないことがあって、それが神様と呼ばれる存在の有無だった。

教会に浸透された、頭っから言いなりの連中に質問するのをやめて、一体何が本当なのか調べ始めた。
図書館や本屋にいって、自分でも分かりそうな宗教本は片っ端から読んでいった。
宗教上否定される対象になったものについても、何とかして情報を集めたくて色んな場所へ出向いて調べた。

何年もそんなことをしていたけど、ようやく『この辺で納得したほうがいいのかなぁ』と思う時が来た。


結論から言えば、神様自体はいる、ということになった。

ただ、いろんな形で時代を超えて世界中の人々がそれを感じているんだということも分かった。
その姿形が異なっているだけなのではないかと。

そして権力と欲望を持った一部の人間が作り上げた歪曲した宗教の慣わしが継続されているということもある。
そういったものが酷い場合は、その宗教は打ちのめされて、でもそれをうまい具合に隠したりまたは改めたなら今日まで続いている。

私が見たカトリックの信者の姿は、残念なくらい妄信的で、そしてまた悲しいほど愚かで空っぽだった。
と、いうだけの話だった。

勿論、そうじゃない人も多いのだろうけど。 
少なくとも私が見た相手は、決して心からの理解が出来る姿ではなかった。




神様は見えない。 見えないけど、見えなきゃいないと思うのもまた短絡的だ。
それは様々な相手に言えることだし、かといって何でもかんでも鵜呑みにするのも問題がある。
だから歪曲されても気がつかないし、間違っていても「見える相手の聞こえる言葉」で丸め込まれてしまうんだろう。


何を信じるか、どう信じるか、それはその人が決めればいい。

でもそれを他人に被せて裁いたり従わせるのは間違っている。



本当の正しさは、内なる声が必ず教えてくれているはずだ。
そしてそのうちなる声に耳が反応する時が必ずある。
それが、良心だ。

その良心が、羅針盤になるんじゃないかと、私は思うに至った。



繰り返し擦り込まれて若干今も思い出す聖書の話。
その聖書の言いたいことはなんだったのか。

本当に伝えたかったことはなんだったのか。言葉どおりの行動を喜ぶとは思えない。

イエズス様は、人の欲の為す罪のために死ぬ運命だった。
そして人の体が死んだ時に、神様の存在として昇天する。
そういう話が新約聖書の有名な題材だ。

イエズス様が処刑されるまでの40日間を四旬節と呼んで、現在でも多く祈ったり罪を省みたりする時期になっている。

その時期ほぼ毎日祈りに使われるのが、ロザリオ。
59の珠と(58の珠と一つのメダイの場合もある)一つの十字架に、一回一回祈りの言葉を捧げる。
(余談かもしれないが、ロザリオをよく知らない人はどうも首にかけるものだと思っている人がいるようだが、それは間違い。
手に持って祈るためのもので、首にはかけない。)


この祈りを、誰のために何のために、捧げているのだろう。

イエズス様が死に直面したという教えどおりに悲しむのなら、なぜ彼が磔刑死の運命の下に生まれたか考えるのだろうか。
所詮は人の体で生き物として生まれてきた自分たちに、元から嘆いてその存在を卑下して拒否するのは本当に正しいのだろうか。
そういった目でしか自分も人も見れないことに、歪みは知らず知らずに生じはしないだろうか。



私なんかに言われたくないだろうけど。

見たくないものと臭うものに蓋をする程度で信者になるくらいなら、
もっと開けっ広げに自分という生き物の有様を知るくらいの覚悟でもあればいい。
それでも依存以外の畏怖を持つことに意味を見出せるなら、その時信者になればいいだろう。


こういうことを考えているととり止めがないなぁ。




この時期はいろんなことが陽炎みたいに脳裏に揺らぐ。




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