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フィードバックのこと

.04 2010 未分類 comment(0) trackback(-)
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幾つか撮っていた動物の写真にヤギが日陰で休む一枚があった。

日陰が消えないところは貴重。
陽射しは焼き付けるような熱と痛みがあるもの。

ひんやりした日陰にただただじっと身をかがめるヤギに様々な思いが募ってしまう。






暑さと涼の話はここのところ四六時中だから、ちょっと脇へ押しやる。



さて。 いろんなことへの反応を考えていた。

反応というか、なんというか。
自分が発したもの(態度や言葉や雰囲気など)を受け取った誰かが戻した時のことなのだけど。

これのことを、誰だったかの本で「フィードバック」と呼んでいたのを思い出していた。


違いはなんだろう、ということについては、着目点と重視点が異なることかしら。

「反応」は、発信したことをキャッチしたことが表されたら、それを反応と呼ぶのだろうか。
「フィードバック」は、発信したことが跳ね返って戻った時の情報をいうのか。

もともとエレクトロニクスの用語だというから、私には縁のない言葉だけど、
人間の成長に使うにも適した言葉と説明されていたのを覚えていた。


決まった仕事に長く就いている人々は、時々人生の一部を自分の仕事と似ていると例えることがある。

漁師なら海と天候に、レジ係なら制限やキーの数に、職人なら打ち込む時間に。
本の著者は思い出せないけど、フィードバックの話をしていた人はプログラム開発者だったと思った。

一瞬、デジタルなイメージが人間関係に何の結びつきを見せるのか戸惑うが、
その人のフィードバックの話は印象的で心に残った。



フィードバックで人は成長できるという話だったのだ。
自分が発したものを受け取った相手が何を返してくるか、そこにより早く問題解決をするヒントがあるという。

ありがちな響きの話だけど、話し手が良かったからか一々ぐうの音も出ない。

その人曰く、一番いいフィードバックは自分が驚くフィードバック。
驚くというと何となく良い意味であってほしいものだが、ショックな痛みを伴うほうが自分には最適らしい。


嫌だったり意外だったり、悲しかったり傷つくフィードバック。

それらは受け取る自分にとってそうであるだけだ、とその人は言い切る。
フィードバックには良いも否定的もない、という。
それ自体は単なる情報に過ぎないのだからと彼は説明していた。
情報を受け取る時に感情が働いて、情報自体を分別して良し悪しを定めている。
この辺の説明は実に理論的。
とにかく彼の話では、フィードバックを受け取る時、自分がさらに良く進めるヒントを見出せると。




何か行動を起こしたときに必ず反応がある。

無反応、というのも発したからには反応の一つだとして、反応は常にあるとする。


私の場合は(理由はおいといて)、人との接触を極力避けている生活を求めて行動にした。
その反応は、確かに他人と接触する時間が減少し、限られた人以外は私を見る機会さえなくなった。

フィードバックとするのはこの続きにある。
フィードバックは様々な事柄において見れた。
望んだことも望まぬことも、全てが私の行動に反応して返ってきたのだ。

否定的な装いを持つことにたいして、私は戸惑いや怖れが強くなり片付けることに精一杯になった。
肯定的に思えることには、行動を起こして良かったという満足感がその都度感じられた。

だが、それらは私を成長をさせるためにも使えるというのに、
私は「行動をとったために起こった(起こる)反応として」しか捉えていないことに気付いた。


生活を変えるというのは大きなことだ。
それに伴う変化もまた大きくなる。
大きくしたければそれなりに、小さくしたければそれもそれなりに行動が必要だろう。

大きな変化を望んだ私は、あらゆる意味で大きな変化を受け取ることを予想していた。
でも否定的な見た目を装った結果が何度もやってきたとき、それがどうして終わらないのか分からなかった。
私にとって否定的な出来事は、それぞれ関連性もなく、相手も異なり、原因の時期も全く別。
そのため、私は一々過敏に反応したり運命的なものを勘ぐったりした。

このとき私が木ではなく森を見ることが出来ていたら、
これらは私がとった生活変化への最初の行動から生じたフィードバックだと気付けただろう。



こうした時間を幾つも過ごしながら、今の時点で自分が何を発信していたのかを知る。

それはよく見ると、虫眼鏡で見るように別物の姿に見え、
見つめ過ぎると、顕微鏡のプレパラートにみる構造的な姿に見える。

よくよく物事を見ることは本質を知るには大切なことであるに間違いない。
でももう一つ大事なことがあり、意外とそちらのほうは後回しや二の次にされていることもある。

よく見つめた(見つめ過ぎた)観察対象の出来事を紐解くのは解決を完了へ導くと感じる。
反対に、遠ざかって観察対象の位置や発生時期をまとめて知ることも、根本的な解決に早い。


戻ってくる情報には発したことへの様々な要素が客観的に記されている。
要は何を発したか、何を発していたのか。

自分が気がついていないだけの、気にしていなかっただけの発信もある。
行動をした際には常に発している。
それらが常に反応を呼んで、フィードバックで受け取っている。


嫌なことは嫌なこと、困ることは困ること、として一つ一つ片付けていくうちに、
一つ一つを切り離して別のものとしてみる癖がついている気がする。


・・・取り止めがなくなってきたので、この辺りで思ったことを書くのはやめておこう。



生きているっていろんなことを知るなぁ。
それで、いろんなことを学び直したり、調節したりしているんだ。






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