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人の餌

.17 2009 未分類 comment(4) trackback(0)



餌、という言い方は耳に響きが悪いだろう。

まして、人に向かって『餌』。 私もこうして誰かに聞いたら、理由を訊くだろう。

では、『人の食事』といえば若干反応は和らぐのかも。


これは、印象の問題で、言葉の印象のなす業。
良識や分別の見解で引っかかる、抵抗がある、ということ。



言葉上で意識する程度ならまだ良い。・・・? 良い? どうかな。

言葉で使い慣れると、行動もそれに沿ってしまう。つまり意識下でも慣れていくのではないか?
行動に沿った言葉の曖昧さが定着すると、自分でも意外な盲点を見つけるときがある。




私は動物愛護側の人間じゃないと思う。
だけど、動物は動物で人間は高等動物、とも思えない。

生命は上下の基準がない、と思うだけだ。




最近の話だ。

一つ、会話に浮き上がった他愛もないことだった。
そう、他愛もない、普通の話だった。





この前、私は友人と買い物に出た。

買い物といっても食料で、買出しというだけ。 買出しは別に普通、何も無く終わる。
その後、店を出てすぐ前にある道路を見て、この話になった。


店の裏通りは海になっている。
埋め立てした海で、道路沿いの壁を境に、下は海という感じ。

だから、釣り人がいつも一杯いるのだ。
釣り人は老若男女、年齢も人数も様々な広範囲だ。
皆、道路に駐車して壁の上に座って釣りをしている。


一緒に買い物に行った人は、釣りをする人。

朗らかな笑顔で「ああ~いいなぁ、釣りしたいなぁ」と。

釣りをして、その時間をのんびりやり過ごすことの豊かさを話していた。
釣れれば魚を持って帰って食べ、その魚が買った魚とはまるで違うと教えてくれた。


私はしばらく聞いていて、ふと思った。(そして思ったことがボソッと口に出ていた

『釣りはいいのに、ハンティングは嫌なのね』



途端に空気は冷たい感じに。 だよね、そんなこといわれるなんて思わないもんね


冷たくしてしまった空気、仕方ないから、ちょっとカバーしようと思って付け加える。

「釣りが嫌い、とかって言うんじゃないよ。 
 日本人は魚を釣ってさばいたりするのは抵抗ないのに、やっぱり食文化的に哺乳類とかは抵抗あるんだね、と・・」


するとその人は持ち直して、「そうだね」と自分なりに受け止めた感想を話した。


この後、私とその人の会話は家に着くまで続くのだが、その人は笑顔が出なくなってしまって、如何せん申し訳ない時間を作ってしまった。



最近。 こういった国に住んでいると色んなものを食べる機会に恵まれる。

それは一体なぜか。
この話はまた別の機会に。

今日の話はそこじゃない。 もう少し単純で明快な部分だ。

だけど、盲点になっている時もあるという日常の意識でもある。



ハンティングは釣りと変わらない、と私は思う。

釣りをしている人には不愉快に感じる人もいるだろうが、不愉快になる理由はない。
楽しんで、魚を釣るのなら、それはハンティングと同じだと思うからだ。


中には釣って食べれば意味があるという人もいる。
そうだろう。 
そのことも今はここで話しに混ぜ込むとややこしくなるから、またの機会に。


話は戻って、ハンティングをする人をいかれていると思うのは私だけか。
殺すことだけを楽しむ人が、何を誇らしげに首を祭るのか理解できない。

これと魚は幾分にも変わらない。

釣って楽しいから、唇に刺さった針を抜いて元に戻してあげるというのは、優しいのか。
唇から細菌が入って食事を取れなくなる魚は、自分のしたこととは別なのか。
魚に痛みの感覚がないという話を聞いたことがあるが、痛くなければ気にする話ではないのか。
食べきれないほどの魚を釣り上げてご満悦で食べたい魚だけを選び、
息も絶え絶えの魚や死んだ魚をクーラーボックスから再び海に戻すのは気に留めることでもないのか。



私はそう思えない。


なぜそこで、魚はいいけど動物は可哀想だ、と言葉に出るのか。

少し自分たちのことを見つめてみよう。苛々する前に。


日本人は多くの場合は魚の文化だ。
海のものに助けられて、食文化は日本固有の食材を導いている。
勿論、山林に入っての狩人もいたし、その恵みによる料理だってある。

だが、現在も・・・ というより、もしかしたら現在のほうが、獣肉を意識していない生活をする人は多いだろう。

これだけ毎日の食卓に上るけど。

食文化的な背景が大きく作用しているのは分かる。
もし、現在の日本人が釣りだけではなくて同じくらいの率で狩りもする傾向にあったら、きっと狩りで得た動物を食べるだろう。

ただ単に、釣りをするには環境が割りと整っていて、狩りをするには簡単じゃない環境だというだけ。

だから、日本人の多くは釣りを選ぶのだろう。
狩りで食べるものを得るよりは。


ここで戻ろう。


こうした食文化の背景が個々の意識には子供の頃から流れている。
これだけであろう訳もないが、単純に捉えれば、人が生き物を強引に手に入れるというのは、食べるかそれ以外の得でしかない。

食事として求める相手が生きている、のであれば、それはどの動物でも同じことが起こっている。


先に書いたけど、『人が生き物を強引に手に入れるというのは、食べるかそれ以外かの得でしかない』のだ。

一番自然ではない行動が、遊びで殺すという、楽しみとしての求め方だ。

この行動は自然ではない、と今書いたけど、イルカもチンパンジーも団体で一頭を殺すという行動はある。
いたぶって、傷つきすぎて死ぬまで続くようだ。

だからといって本能にあるかどうかではない。私が今話しているのはそういう脱線話ではない。



人にいわせれば大真面目に考えることでもないだろうが、私だって大真面目に考えてはないかも。 

でも疑問への答えは知ろうと思う。



ハンティングをして楽しむ人が、食文化の背景に狩りが優先的であったなら、ハンティングも抵抗がないかもしれない。

それは、釣りを楽しむこととなんら変わらない。
食べきれない数の魚を釣って、満面の笑顔で釣って死んだ魚を海に放り込む人と。


釣ること自体を楽しみにしている人の手に触られた魚。
大きい魚で自分の好きな魚なら食事に、そうでないなら釣りが終わった後に残った魚を海にぶちまける。

そうした楽しみを持っている人がたまに食べるために釣るとしたら、それは食事ではない、その方の餌となるために釣られるのかも。

銃弾に倒れて、遠のく意識と血の流れた体で、角を踏みつけられて『今日は小さかったな』なんて言われて死ぬ鹿も、
もしその狩りをした人が気紛れに肉も食べるとなったら、その方の餌となる気がする。




私と話した人は、こうした楽しみの釣りなんてしない人。

食べようと思うから釣りに行く人。




こんな話はうっかりでも、気を悪くするだろう。 話の最中に、しょっちゅう『あなたは違うけど』と入れた。



最後にまた、『あなたは違うって分かってるよ』と私は呟いた。

その人は、「そうやって意識することも大事かもしれない」と言ってくれた。








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comment

Kinu
庭に来る野性の動物や野鳥をみていると
彼らは「生きる」ために生きている、
そんな気がしてきます。
そして彼らのその生き方は
ずっと変わっていない。

両親は大正の生まれで
戦後の大変な時期を生き抜いてきました。
その話を聞くたびにすごいな、と
子供心に強く感じました。
話をする両親は懐かしい思い出話をするように
時には笑顔で話していたのを覚えています。
小学生の時の夏休みの絵日記をまだ持っているのですが、
その日記を読むとほんの些細な贅沢が与えた
大きな幸せを思い出します。

勿論家庭環境もありますが、
生まれた時代背景によって
子供の生き方、考え方は大きく左右されると思います。
豊かさから得るものと
貧しさから得るものと、何が違うのだろう・・・
ちょっとそんなことを思いました。

今のハンテイングは趣味の域だと思います。
All You Can Eatというビュッフェ式の
レストランは低価格で家族がよく利用しますが、
そのために肥満、健康の問題が深刻化しています。

生きるために生きる野性動物を思うとき、
どうしても考えずにはいられません。
もっとまじめに生きなくては、と
思ってしまいます。

なんだかまとまらない文面となりました。
2009.11.17 23:18
ea
Kinuさん、こういう話を出すとKinuさんは沢山思い巡らすだろうと思いました。
直にお話できると、もっと細かい思いまで話せるのですが。

在る物に対しては人は動こうとしない、というの・・・
それが豊かさ(物がある)と、貧しさの大きな隔たりの壁の気がします。

物がない、というのを経験した人は、物を作り出そうとしますが、
物が溢れている場所にいる人は、作り出そうとする意識にかける何かがあるのでは。
その作り出すものは何も、『物体』そのものではありません。
そこに寄せる感情や思い入れ、大切さ、尊さ、そうしたものです。

Kinuさん、ここからちょっと長いですよ。
よく友人と話すのですが、命さえ買い物の対象になっている今。
その中で育っていくというのは、空恐ろしいことですよね。
でもどうしてそれを止められるでしょう?
商業的な社会の中、親でさえ、更には親の親でさえ、子供たちに命を買い与えます。
『死んじゃったらまた買えば良い』と言って。
この光景を見ると唖然とします。
近所のビオトープに遊びに来る小学生、ザリガニを捕まえて腕をもいでいました。
片腕をもいだザリガニを数匹、戦わせて面白がっていました。
ビオトープの川の中には、マクドナルドのポテトが捨てられていて、
ザリガニは夏のアスファルトの上に置かれてオモチャにされていました。
子供たちは飽きるとザリガニをそこに置いたまま、自転車で帰るのです。
置きっぱなしの死にそうなザリガニを、友人が見つけて、
せめて水の中で死ぬようにと川に戻しました。
次に行った時、現場を見た私達は小学生に注意して、ザリガニを戻しました。
その次も、その次も。
小学生達はもう高学年。それでも『何で戻すのかな?』と心底不思議そうでした。
全く、そのことを何とも思っていなかったのです。

ビオトープ内は生き物を捕らないで、と何枚も看板があります。
それの横で、孫を連れたお祖父さんお祖母さんが池に入れと孫に言います。
親子連れも同じようなことをします。網もバケツも用意して、
マクドナルドのハンバーガーやポテトを池に振り落として、捕まえようと。

ビオトープは水道局の管理下にあるのですが、看板以上の管理もしていません。
自覚によって良し悪しの行動を促しているのですが、
それを全く気にしていない人が沢山います。

生き物の命を無下に扱う、というこの現象。
私はここに書くのでないなら、もっと毒のある言葉で思いを吐くでしょう。

豊かさは、便利であり、都合の良いことばかりです。
その意味するところは、人の為のみ、の良さであることです。
他の生命と共存していることを忘れるどころか、
他の生命の存在を下方に見やった行動の成れの果てが豊かさでしょうか。

学ぶことは出来るはずですが、人のための空間に学ぶことは、
愚かしくも恥かしい「人」のみを最長とした学びに偏りがちです。

Kinuさん、無防備に生きなければならない貧しさの内にいる時、
人は精神を病み、心を保つことさえ難しいですが、
ご両親のように一生懸命生きることをちゃんと大切になさる人も在るのです。
生きとし生けるものの中に、また自分達もいるということを知っていらっしゃった。

それが、人にはとても大切であり、決して失うものではない意識だと思うのです。



2009.11.17 23:58
Kinu
ときどき人の感覚が分からないことがあります。
Eaさんのお話のようなことをお聞きしたり、
動物を飼うということへの対応、
他にもあげたらいろいろあります。

感覚の違い、考え方の違いで
単に済ませられないことってあると思います。
おっしゃるように「命」のこと。

戦いや、人を殺したり、
ものを壊したりするゲームがたくさん出ていますが、
ゲームといえども実際に行為はしているわけですね。
そんなゲームを流行らせる人もどうかと思いますが、
たくさんの人が子供が興味を持っている
ということに怖さを感じます。
ゲームをしている感覚が
現実の生活に入り込まないという可能性はありません。

どんどん人は機器にむかって語りかけ、
コミュニケーションをしていますが、
それもなんとなく怖い感じがします。
といいながらこうして今も
モニターに向かってキーを使って
語りかけている自分がいます。
でも私は宇宙の画面にいるEaさんに
ちゃんと話しているつもりです。

また話が大きくそれてしまいました。

とにかく、自分の持つ感覚が正しいかどうか、
ときどき修正したり、考えたりする必要は
大いにあると思います。

ザリガニの話、読みながら悲しくなって
ちょっと涙がでました。
でもそういう現実があるということを
知ったことは大切だと思いました。
生き物を傷めることに
何の感覚もないとしたら、人間として
これは本当に恐ろしいことだと思います。
2009.11.18 02:28
ea
Kinuさん、
私はこうした話をすると必ず誰かしらに言われることがあるのです。
責任転嫁です。
『あなたもやったことあるでしょう?』って。
この言葉を軸にした、様々な言い回しや表現によって、
人の反論がやってきます。

もしかしたら、この記事を読んでいる人の中でもそう思う人はいたかも。
でも、ここは個人のブログです。
私の言っている事があまりにも酷くなければ、
きっと反発の声も言わないでいるかもしれません。

いつも思うのです。
多々ある日常の出来事の中でも、人と関わると必ず起こるこの責任転嫁。
随分昔のことですが、私がこうした癖を気が付かずに使っていた時、
ふと『私の反論は何かずれている。』と感じてそれから止めました。
よく見ますと、他の人もその責任転嫁を繰り返しているのです。
『ああ、なるほど』と思いました。
そうした中で生活しているから、それが当たり前のようになって気がつけない。
いろんなことを学んでも、良い解釈に繋がるところしか拾わない。
盲点、というのは習慣化した自己防衛にあるんだ、と知った時でした。

自己防衛は善悪のための煙玉みたいなものです。
それを使うと、自分の悪かったことをした気持ちに煙幕が張って落ち着くのです。
人は弱いから、悪いことになびきますが、それを悪いと知ってもいます。
そして知っている部分が居心地を悪くさせるのですね、自分という立場を。
だから見えなくする。その方法は一度上手く行けば何度も繰り返されます。
そして習慣化する。
困ったことに伝染もします。知恵が伝承されるように、悪知恵もまた移ってゆく。

空恐ろしい、と言いましたが、伝染しているものに気がつけなくなると確認もありません。
もしそこを突いてくる人がいたとしたら、すぐにその人を排除しようとします。
目障りだし、その人の言っている事に自分の煙が
『悪いものへの助長』だと無意識的に示唆されているからです。


私は思うのです。
私が昔、子供のときにしたこと、命を大事に出来なかった後悔や記憶。
それらは今も繰り返されていません。

私のしたことへの指摘によって、私の言葉を遮ろうとする人は、
私の過去を引き合いに出して私を黙らせて何も無かったことにしようとします。
でも、そういうものでもない。
罪を繰り返すことはないのですから。

昔私がザリガニを飼おうとして死なせて締まった事。
だから、今の子供たちがザリガニで遊んでも文句言えない、と反論する人。
ですがそのザリガニ1匹には、そのザリガニ1匹のための命しかないことを無視しています。
私が死なせて命もその命しかありませんでした。

悪いことをした人に悪いことをするなと注意されたくない、と言う人々。
だとしたら、人は何に学び何に経験を得て、何によって後悔や自責の念を心に抱えるのでしょう?
悪いことをした人がその経験を通して目覚め、繰り返される過ちを注意しても聞く耳持たずにいて良い、と言うのは、
善悪の心の最初の門を叩かないで追い払うのと同じことです。

Kinuさんのように、自分に問いかけながら時々修正をしたり考える、という行動。
これは本当にいつの世でも、幾つであっても、大切なことだと思います。


2009.11.18 11:08

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