スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

無自覚と欺瞞

.22 2009 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(0)



ちょっと前に記事に書いたことが引きずっている。

ボランティアの話だ。
ボランティア、というか、助ける意味の話だった。


あの日、遠くに住む友人からメールが来た。
そのメールには私の書いたことへの感想が。 彼の一言が頭の中に残っている。


『貧しい人を助けたいと言う気持ちが半端だと、逆に精神的に助けてもらっている側になっていることに気付いていない』


彼は『自分もそうなので・・・』と続けていた。





私に絵を頼んでいるチャリティ・イベントを行う人は、そういう立場にいるのかもしれない。
その人だけを非難する気はないが、どのくらいの決心があるかを不安に感じる言葉は、いろんな形でいろんな人から沢山聞く。

そして、その一人に見えるその人。



何度話し合っただろう。 何時間費やして、何回説明をしてきただろう。

でも、まるで外国語の会話の結果。 私の言葉は吹き抜けるのみだ。
聞こえていない。



もし。

誰かを助けたいと思うとき。 何を思いつくだろう?
何をして、何を続けることが、どういう結果への車輪になり、その車輪が残す轍をどう想像するだろう?


ある人はこう言った。

『ボランティアを本気でしたいと思うなら、まずお金がかかる。お金を回せる会社を作るべきだ』と。

この言葉には初め、びっくりした。でもよく聞いてみると、現実的な意見にぐうの音も出ない。

 
ボランティアとお金稼ぎは、対照的な存在に思えるけれど、この人の話は最もだった。
『理想で人助けなんか出来るわけないだろう』と言い捨てた。




チャリティ・イベントの人の話は、私みたいな無知な者でも何やら疑問を抱く話。

ここ最近はその傾向がひときわ目立って来ている。
だからこんなふうに頭から離れないんだと思う。

チャリティ・イベントをする理由は「寄付金集め」。
その寄付金を多く出来れば、沢山の団体に渡して、沢山の命を助けたり森林を増やすわけだ。



ということは。

集客することに目が向く。
イベント開催のたびに人が増えること・エコ商品が必ず買い求められて大きな利益を生むことが目下のところ。

だ、という。



彼は話していることが段々変化している。 違うな、話の重点が段々ずれてきている。

彼はホームページに力を入れるためにホームページを新しくデザインし、エコ商品としてのTシャツを販売することに力を入れ始めた。
その中に、私の絵も商品として含まれているわけだが、それはまあお手伝い程度。
Tシャツの製造が彼の重要視するところとなっている。

なぜ?



彼は言う。『売り上げがないと寄付は出来ない。』

数年前の彼は別の言葉が先だった。
『イベントに参加する人たちが、ちょっと入場料を払ったりするくらいで、それがエコになっていると感じてほしい』と。

ボランティアにお金がかかるというのは学んだようだが、そのお金のもとが自腹であった初め。

自分のバイトした給料を使ってイベントを行う始まり方では、いつまで経っても大きな成果は出せないと知った。


そして、もっとイベントを大きく出来るように、もっとお金を落とす人を増やせるように、彼は『寄付目的の会社』を目指し始めた。

イベントを開催→参加者エコ商品を買う→売り上げの一部を寄付する
→寄付金以外の売り上げで商品を作る→寄付金以外の売り上げで、またイベントを開催する・・・


あくまでボランティアを続けるための方法として、こうした会社を作るらしい。




でも、ここですでに疑問が。
私の中では、だけど。


ボランティア、という名目でイベントを開催して集めたお金の中から、彼の生活費も出る?
彼の私生活を支えるお金。 彼が人を雇うお金、経費、その他諸々の細かい分類のお金が出る。 出る? 


これは、違うことではない?


たしかに多くのNPO団体は、寄付金の中からボランティアに関わる人たちのいろいろな資金を工面している。

完全なボランティア団体、となると、何かしらの大きな企業がサポートしてくれないと存続は大変難しい。
その大きな企業は、別の仕事をして利益を生んでいるし、その利益の中から自社のためにもなる「ボランティアサポート」を支持しているのだ。
そう、だからボランティアはボランティアとしての意味を保っておけるのだ。



寄付をする人は、寄付金をどう使うと思っているのだろう。

寄付したお金が、寄付する相手となる環境や国や人命の手助けとなると考えているのではないだろうか。

勿論、その活動を現場で行う人たちの衣食住にも使われるというのは理解しているだろうけど。


NPO団体の在り方で活動資金としての金額は様々だが、決してそこに充当される金額は少なくは見えないかもしれない。
年間の表で数字だけ見たら「!」と感じる人もいるだろう。 
ただ、丸ごとその人たちの生活を支えるような使い方はしていない、という事実が明確になっている。
よくよく見てみれば、活動人数に対して割り当てられている金額は、普通に考えてみて非常に低い。

そういうものなのだ。

丸ごとサポートしてくれる大きな会社の利益から、ボランティアの運動に従事する人々の生活が賄われているのも、「ボランティアをしている」からだ。


始めのほうに書いた『理想で人助けは出来ない』というある人の言葉は、その通りなのだ。
規模が大きければ大きくなるほど。

無利益で何かを永続的に助けるというのは、大富豪でもなければ出来ない世界だ。
理想どおりに助けるという図は。


理想どおり・・・  例え話をしよう。



長い話しが更に続くが、例えば、どこかの国に学校を作ると言う目的を持つとする。

だから、お金を貯めて学校を作る。
これが上手い具合に運んで、学校を作ったとする。

次は先生を呼んで、生徒を集める。

学校らしい状態が出来上がって、ああ良かった、となる。この先は国に任せようと。



これは間違っている。

学校なんて作るとなったら、まず覚悟は一生ものだ。

初めにしなければならないことも相当な量。 
何故そこに学校が建てられなかったのかという話から紐解いて行かなければならない。

そして、学校を維持するのは大変だ。
先生の給料、生徒の教材、給食の用意、給食を毎日運ぶ運輸の手配、水道の確保・定期点検、
衛生の検査、医療施設の常設・あるいは定期的な回診、設備の手配、学校の管理、建物の補修、生徒の登下校への安全、学区の安全・・・

これを1年中。 ついでに学校は1年で済まない、その先何十年もあるのだ。

人を教育するということはやらなければならないことと、徹底しなければならないことが山積みなのだ。
その人たちへの学力や未来の生活への責任を預かるのだから。


これをやりっぱなしで放置したら、それは自己満足である以外の何ものでもない。



例え話は学校だったが、学校だけではなく、全てのボランティア活動の支援先に向けられることが『責任』だ。




だから、自分の生活資金を作り出しながら、名目はボランティアとして寄付金集めをして、
不透明な一部金を充てるくらいで誰かを助けたり森林をカバーしたりしている気持ちになってしまっては・・・・・


それは欺瞞だろう。

そして、人助けや地球を救うという大それたことへの発言を掲げるには、あまりにも軽く、自覚が薄すぎる。




そう思うのだ。



本気でやるなら、中途半端に回し続ける歯車を作り出して気持ちよくなる先進国の人間でいてはならないだろう。

ボランティア資金を使いながら自分の生活を成す事を念頭に置く、自己欺瞞。

環境や発展途上国の物産を取り扱うようにして支援への距離を保つ普通の利益を出す会社をまず作って、
その会社をちゃんと回せるように安定させてから、そこの利益を使うボランティア団体を別に作ればいい。

早い話が、二つの会社を持つことだ。

一つは利益を生み続ける普通の会社、もう一つはボランティア運営だけの会社。

別としてのボランティア団体であれば、資金は本来ある会社から受け取る形を持ち、
ボランティア活動による寄付金はそのまま支援先に寄付することが出来る。
何も不透明ではないし、寄付を募る時も後ろめたい言い訳は0なのだ。



助けたい、という気持ちは大切な気持ちだ。


しかし、そこに依存していく損得勘定に気が付かないと、助ける気分に泳いでいるだけの自己満足になる。

エコ商品と音楽イベントで助ける手を差し伸べているつもりになるのは、実は自らの生活さえも潤したいからか。

エコ商品にこだわる必要なんかあるだろうか。
イベント開催に注目されなきゃいけない理由は何にあるのだ。

気持ちがはやって、すぐにでも助けたいと思うのは分かる。
だとしても、それに手を出すにはあまりにも未熟である自分を知る必要がある。


『自分は助けているんだ』と思う一瞬が、本物かどうか。

本物という形が一瞬のきらめきで終わるものかどうか。




もっと、もっと、近づかなければ、最後まで助けるなんて考えつきもしないものじゃないだろうか。








スポンサーサイト

comment

Kinu
難しいテーマですね。
これは全く私の中での解釈ですが、
ボランテイアというと自分が実際に動きながら
何かを支援すること。
チャリテイーは実際に活動に関与せずに
支援(寄付など)することではないか、と。

アメリカに住むようになって
冠婚葬祭の儀式的なやりとりが少なくなりました。
その代わりにそれこそ数え切れない
様々な支援団体の中から自分で選んだ団体に
寄付を送ることが自然の行為となっています。
私たちの選んだ支援団体は、個人が経営のアニマル・サンクチュアリー、
地元の歴史保存会、アート・アソシエーション、癌研、
地元のアニマル・シェルター、パブリックラジオ、
他にいくつかの団体に小さな支援をしています。
支援は毎年、定期的に行います。
アメリカでは様々な支援団体に寄付を送ることは
一般家庭でもよく行われています。
寄付の規模はそれぞれ支援できる範囲。

その団体は寄付によって活動を行っています。
そしてその団体は寄付がどのように使われているか公表しています。
寄付が経費のどのくらいの比率を占めるかは
寄付をする側の関心事となります。

おっしゃるように支援活動を行うことは
実にビジネス的な要素が大いにあります。
私はあまりイヴェントによって
資金を集めるやり方はあまり好きではないのですが、
大きな資金を集めるには
イヴェントという形のほうが確実かもしれません。

私たちが寄付をしている団体の活動は
充分理解できていますので
不信感は全くありません。
自分が実際に活動に加わらない代わりに
寄付という形で支援を送る。
その活動が維持できるように。

もうすぐサンクスギヴィングですが、
この時期になりますと
様々な慈善事業の団体が資金集めのために
活発な活動を行います。
サンクスギヴィング、クリスマスは
人々の気持ちが感謝と慈善に動く時期のようです。

一般人が出来ることには限界がありますが、
できることはあります。
ボランテイアとかチャリテイーという言葉を
意識せずに、
できることをすることを考えています。
2009.11.22 11:24
ea
Kinuさん、本当にこれは難しいです。

Kinuさんの言う様に、チャリティとして集めたお金を
大きな団体に運ぶのならまだ理解できるのです。
でも、その続きにボランティアの言葉を用意して、
寄付金を運営のためにも使う意向となると。
それは使い先を明確にはっきりと、寄付してくれた方々に公開しないといけませんね。

でも、それを会社として名づけて一緒くたにまとめてしまったら?
そうなってくると、会社という形に隠れ蓑を寄せかねません。
私は今、私に絵を注文していたその人が、そうした方向に
意識を持っている気がしてならないです。

ですが、聞く耳を持とうとしないのですね。どうしてか。
話し合えば、その人の心の中には本当に善意があるらしいことは分かるのですが・・・
善意は、彼の個人的な利益の海に浮かぶ灯台になっているのかも。

その人の話が徐々に違和感が出てきたので、そのことを伝えようとしましたが、
傷つけるのも嫌だし、かといって歪んでいることをどう気が付かせていいのか。


私も寄付金は出しています。
カンボジア難民の支援団体と、野生動物保護の資金です。

ボランティア資金という内容に、運営者の生活費なども含めるというのは、
どう言い訳しても寄付金を出す人たちにとっては別の話にしか聞こえないでしょうね
私が出す側なら、きっと「え~?」って感じますもの。
現地に移ってボランティア活動に一身に捧げる人々の資金なら分かりますが、
運営者の光熱費や私生活のガソリン代や食費一切にあてがわれるなんて。

ボランティアもチャリティーも、簡単な説明で教育されて
簡単なものだと教える人がいるのがこういう間違いを生み出すのかもしれません。
2009.11.22 11:51

post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackback

trackbackURL:http://cyatai.blog21.fc2.com/tb.php/333-5b8bdb25

プロフィール

ea

Author:ea
EA/ 絵描き・端革細工作者

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

最新記事

カテゴリ

HP・端革細工の回廊

Gremz

クリック募金

National Geographic

天気予報

天気時計

Amazon

日本語→英語

最新コメント

RSSリンクの表示

リンク

検索フォーム

月別アーカイブ

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。