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自己の水瓶

.28 2010 未分類 comment(2) trackback(-)
one-beauty.jpg



身近な人から距離を置いて歩いていると、どうしてそうなるのか、大切なことだけが頭に残る。
ふるいにかけた砂のように、たくさん詰まり過ぎた自分の中の未消化がいつの間にかいなくなっている。

未消化だったということさえ、その時は選別できていなかったと思う。

私はよく『霧散する』という言葉を使うけど、自然の中にいるとこれほど実感する時もない。
何が小さくて何が取るに足らなくて・・・そんなことも分からなくなって何もかも詰め込んでいた心が、
自然の中にしばらくいると霧のように散ってしまう。





砂浜にこの世の命を終えたクラゲがぽこんとひっくり返っていた。

このクラゲは自分が死んだ後、どこに行くのかなんて考えていなかった。
でもクラゲはクラゲとして、こうして大きくなるまで無事に生きた。
生きている間、生きたのだ。

食事を摂れるときは食事をして、体を成長させて、ゆらゆら漂いながら、
寿命か他の原因かで死ぬまでちゃんと生きていた。

美しい花のようなクラゲは、ころっと転がった姿で、またやってきた波に抱えられて海に戻っていった。







(ここからはものすごく長いです。もしお読みになるなら、たっぷり暇な時に)


こうして過ごしている時間の中でも、やはり人との関わりはなくなるものではなくて。
他愛ない話から、段々と人の悩みを聞くようなこともあり。
そうすると、話が終わった後に自分一人の時間になって気がつくことがある。

人の振り見て我が振り直せ、という・・・ 話している最中もこれはよく感じる。

ある人が悩んでいた『自分の在り方』について、感じたことをここに書いておこう。


ある人、その人はRさん(仮名)という中年の男性。

Rさんは内気で人見知りをする。話していると、真面目で誠実な態度に良い印象を受けた。
Rさんは私が自然が好きだと知ると、自分も自然が好きだといろいろ話してくれた。
そしてここから彼の悩みが始まる。

自然の話をしてる時のRさんはとてもニコニコしていた。身振りも手振りもあって、楽しそうだった。
だけどRさんの境遇に意識が傾いた時、Rさんは笑わなくなった。
溜息が連続して、こっちを見なくなった。
Rさんの悩みは、職場の人が嫌な人が多いためにつらいこと。
Rさんは契約的な働き方をする仕事なので、期間的にはリズムがあって働く時期と休みの時期が交互に来る。
そのため、継続的なつらさを味わうわけではなくて、休みの時期はその嫌な人に遇わない。
でもやっぱりRさんはとてもつらい、という。
数ヶ月我慢すれば良いだけだ、と知っていても嫌でね、とうつむいた。

私はRさんのことを根掘り葉掘り訊ねる気にはならなかったが、ちょっと解釈の要素をもらうことにした。

嫌な理由は何か、ということ。
これが分からないと、私はただの石と同じである。石に向かって話しても意味がない。

私が『その人はどう嫌なの?』と訊いてみると、Rさんは職場で起こることを話した。
Rさんが仕事を頑張ってやっていても、
相手はすぐに『○○さんだったら良かったのに』と別の人を引き合いに出す。
その相手は組んで仕事をしなければいけない相手で、Rさんから組む相手を指定できない立場だとか。

Rさんは高確率でその相手と組むのがほとほと嫌になったと話す。

なるほど。 私もそれは嫌だ。

私が『あなたにだけそんなこと言うのかな』と呟くと、
Rさんは否定して、『皆にそういうことを言っているよ』と付け加えた。
でも気にしない人もいるし、聞いていない人もいて、ただ自分は毎回言われるのが嫌なんだという。


Rさんは自分のやり方で進めないと上手くできない、と言っていた。
自分のやり方じゃないやり方で頑張っているのに、相手は嫌なことばかり言う。
そして引き合いに他の誰かの名前をこぼす。

確かにこう言われると、いちいち誰かと比べられれば気に触るだろうと思う。
Rさんは一度、『俺はその人じゃないから、止めて下さい』と話したことがあるそうだ。
でも止めてくれない。いつまでも比べられ続ける。


私はRさんに、相手はきっと対人経験が少ない人なんだと思うよ、と話した。
経験が少ない人は、他人に対して尊重をすることが未熟なんだもの、と。

他人の気に触ることよりも、自分の言いたいことを言うほうが優先だし、
自分が困っているんだという事実以外に意識が向かないからだ。

相手は、いつも他人に「ああしてくれ」「こうして欲しい」と思う人で、
それが思い通りに行かないと「邪魔されている」「なんでそうなんだ」となる。
そこに他人と自分の違いが見えていないのではないか、と私は話した。


Rさんはそんな人ばかりで嫌だ、と溜息をついた。
私は『Rさんが相手を理解したほうが、自分の位置ははっきりすると思うよ』と言った。
相手を見下したり決め付けたりするのではなくて、相手はどんな性格でも人格でも「他人」でしかない。
他人に対して、自分の無理にならない動きと相手を理解することは、
自分にも他人にも尊重が生まれるから、妥協が悪い意味を持たなくなる。

『理屈で言えば、だけど』と私は言い足した。
Rさんは頷いていたけど、こう言われたからって明日からの仕事も気が重いんだろう。
Rさんの顔が、私のほうを向くことはなかった。



私は一人になって、話の内容を思い出していた。

人にはああ言えるけど、私もきっと同じように悩んでしまうかも。それを踏まえて。


実はRさんのことも含めて最後の説明をしていたのだけど、それは言わなかった。
話していたRさんは、『自分のやり方』に拘っていた。
そしてRさんのストレスの相手もまた、その人の思うようなやり方に拘っている。

拘っていけないというのでもないけど、拘ると相手の存在を消しがちになる。
相手のいることで相手を消すというのは、まずい。
相手と自分のはっきりした違いが理解出来ないから、相手が自分の意に沿わないことがストレスになる。

相手の存在を消すというのは、つまり相手は自分ではないことに曖昧になっている。
自分の望んだ反応をしない、自分の筋書きに合わせない、だから『傷ついた』となる。

Rさんは、言われることをこなす仕事だけに、嫌々でも付き合う。
でも心の中では怒鳴りたいくらい苛々している。
この場合、Rさんのストレスの相手も、Rさんも、お互いを消している気がした。


折れればいいか、というとそれも良くない方法だと思う。
言い方が良くないのか、意識の仕方がまずいかは難しいが、とにかく良い方法じゃない。
折れる、というのは服従的な意味を持つ言葉だから。
そうすると「折れた」ほうは、自分に「折れてあげた」と嘘を着せて窮屈な我慢をする。
窮屈な我慢をすると、いずれ崩れる時が来る。
崩れた時、最初の行動を起こした気持ちはどす黒く変化していることが多い。



自分が、どう思うか。どう感じるか。どう受け取るか。
相手を気遣うのは、なぜか。
相手の態度に、何を感じるか、どう行動するか、は常に自分発生であることを自覚しないといけない。
そして、自分が他人にまで拡張していかないように、自分の枠を持つこと。

例えば、

『彼がここにいなければいいのに』
「私は、彼がここにいなければいいのにと感じている」

『一緒に来いって言うから行った』
「私は、一緒に来いという誘いに行くことにした」

自分から発生した気持ちは、言い方や表現の用い方で、他人の責任にも感じるし自分の責任にも感じる。
でも私達は、いつも何処かで自分の責任を短縮化して他人の責任に転嫁している。
それはその時だけは楽かもしれないが、すぐに苦しさが滲んでくる。

そしてそうやって繰り返した方法のために、自分という体の中がすっからかんになってしまう。
見える体には動かす意思が入っているものなのに、全て人任せになると誰かのアクションに振り回される。

水瓶には水が入っていないと倒れてしまう。
水がこぼれていくのはヒビが入っても埋めないからだ。
また、溢れるほどの水を求めたところで、入る量は決まっているのだ。
こぼれるヒビを直さないことを、溢れるほどの水が入らないことを、
他人のせいにしていては水瓶はあってもなくても変わらない。




クラゲを見て、自分の今の位置を見て、人との会話の中から見つけたものを考えて。

本当の自己に向かってゆっくり歩いている気がする。


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comment

ea
イプシロンさん、こんにちは。

> コメント欄、拙文で汚してしまってスイマセン。

いいえ(^^) ゆっくり自然を感じている間は日記状態にして、
小さな写真の中の美しい自然の色を見てもらいたかったのですが、
こういった内容の場合はコメントはあったほうが良いと思って。
拙文なんて、とんでもありません。真剣にコメントを入れて下さって、有難うございます。


> 私が思う解決法はズバリ「許す」ことだと思いました。
> 人間にとってこの「許す」という心を持つことは最大の難関だとも思っているのですが、
> それが出来たなら、寛大極まった立派な心の持ち主になれるのだと思うのです。

そうですね、非常に大変な作業です、私は特にそうかもしれません(笑)
許すというのはとてもとても深い愛情です。
ですからやはり、許すと思うほどのことがある相手であれば、深い愛情を向けるのさえ難しい。

この許すという内容について、イプシロンさんは細かく丁寧に話して下さいました。
私はカトリックで教えてもらった「許し」という思いを今も時々考えます。
聖書の言葉は宗派にも左右されますし、また説教する神父にも多々理解のブレが生じます。
だから鵜呑みにはできないのですが、自分で読み解きながら少しずつ体験を照らし合わせる感じです。

聖書の中の許し、というのはどちらかというと尊厳のような気がします。
神様の御旨にかなう者であるように、神様の愛と同じ愛を持って生きる為の、許し。
と、私は解釈しています。
仏教の中の許しとは少し感覚が違うのですね。
仏教では許しは、自らのものです。自分が相手への執着を取り除くこと。
自らの内にある御仏の声を相手に行なう。仏教の許しは、個人個人が小宇宙なのでしょうね。

私は神様を信じながら生きていますが、考え方は何となくカトリックから離れているのです。
でもどちらの意味でも、都合よくさえ受け取らなければ善い行動に移せると考えています。


哀れむ、という言葉がありますね。
私の知っている人間に、哀れみの心という名の人間がいました。
日本語ではなかったので、その人は妙な名前を嫌がっていました。

ある時、外国人に名前を聞かれて自分の名前を伝えたら、「恐ろしい名前だ」と言われたのです。
何故か。その時理由を尋ねても、外国人は答えなかった。
それで別の日にもう一度、気になるから教えてくれと頼んだら、
「その名前は、名前ではなく、神様の心のことだからだ」と言葉を選んで説明してくれた、という話しです。


哀れむ、という考え方は日本は特にだと思うのですが、良い感覚ではありませんね。
寄り添うとか、同情とか、そうしたものもあまり良い意味で受け取る人は少ない気がします。
また、許すのも同じように捉えられることが多い言葉です。
実際、お互いの立場にやや高さが感じられる場合もありますし、位置的感覚が表れやすい表現かもしれない。

でも大事なことは、その思いや行動が何をきっかけに動いたか、ですね。
相手を尊重できれば自然とそうした行動に移れるものかも知れません。
相手の状態をよく見て、よく考えて、そして自分とは異なる反応をしていることに、
自分はどのように応じるのか。
そうしたことも、イプシロンさんの仰る「許す」という範囲に入っているように思います。


こういうことは話し合い、考え合うことにおいては、とても良いことです。
そして行動に移すことができるなら、もっと良いことです。

> 「罪を憎んで人を憎まず」
> 難しいことですが、尊い言葉だと思います。

> 自然がそうであるように、許して受け入れる存在になりたい。
> そんな風に思って日々を生きています。

はい。 私もそう思います。
抱きしめた大きな木に癒してもらって、自分の在る場所をまた見ました。
他人と関わりの断つことは出来ない世界に生きるので、
歩みは少しずつであっても自問自答と開いた心を意識して人と関わりたいと思います。

イプシロンさん、コメントを有難うございました。

2010.06.28 18:23
イプシロン
EAさん こんにちわ。

旅の途中であっても、一瞬たりとも思考は止まらない。
大変な日々でもありましょうが、それはいつか大切な発見に繋がるのだと信じたいですね。

非常に重い記事なので、コメントするのに勇気がいったのですが、
思うことをいかばかりか書かせて頂くことをお許しください。


私が思う解決法はズバリ「許す」ことだと思いました。
人間にとってこの「許す」という心を持つことは最大の難関だとも思っているのですが、
それが出来たなら、寛大極まった立派な心の持ち主になれるのだと思うのです。

相手の嫌な部分を許して受け入れてあげる。
出来るならその相手の善でない部分を気付かせて直させてあげる。それくらい寛容になれればしめたものだと思います。
それはそれは生半可では出来ないことないのですが、
自分自身が心を広げない限り、どんな人と出会っても
相手の短所に目がいってしまう。
人間はそういう生き物なんだと思うんです。

時には相手の不満を受け入れて、要求に応えることも必要なのでしょう。
自分にとっては絶対にしたくないことこそが、
実は自分の一番の成長の糧だったりするのだとも思うのです。

ただし、寛容であることで仕事を失うようなことになるのなら、それはまた別の話です。
そこで妥協してはいけないと思います。
仕事を失わない範囲で相手を受け入れて許せばいいと思うのです。

寛大な気持ちになれれば
「あー、この人は本当は可愛そうな人なんだな。なんとか善い方向に導いてあげたい」
そんな風に気持ちに余裕すら生まれると思うのです。

私自身、「許す」という心を持たなければいけないと思えるまで、15年以上を費やしましたので、
それが簡単ではないことは痛い程理解しているつもりなのですが、
相手を許して、自分にとって何が一番大切なのかを
見極められさえすれば、余程のことが無い限り
心穏やかでいられるとさえ思うんです。

こんな言葉は大変僭越で申し訳ないのですが、
仕事それ自体に対して自分が抱いている気持ちと、
仕事上の人間関係に対して抱いている気持ちは、
多分違うはずなんです。

ですから、仕事それ自体への信念さえ捨てなければ
人間関係で妥協しようが許そうが
それは何の損失にもならないと思うのです。

相手の嫌な部分を許して
相手に寛大であり続けると、多分相手が変わってきますよ。自然に。
「あれ? なんかこれまでと違うな? この人」って
相手も相手なりに自分を見つめ直す時がいつかくるのです。
もし、そうならならずに、相手がこちらに猜疑や疑惑を持ったのなら、
相手は自然にこちらから離れていくことでしょう。

そして、そうなったことに、こちらには一切責任がないことも確かなのです。
許すことで得られるものは意外なほど大きいと思うのです。


まぁあくまでも、これは私ならこうありたいという気持ちです。
私自身もそう簡単に相手を許せるような人間ではありません。
つい最近も激怒して自分のブログに愚痴吐いてましたからね^^;
でもその件のことも、もう既に心の中では許してます。
「罪を憎んで人を憎まず」
難しいことですが、尊い言葉だと思います。

自然がそうであるように、許して受け入れる存在になりたい。
そんな風に思って日々を生きています。

コメント欄、拙文で汚してしまってスイマセン。
まぁ気楽に読み流して頂ければ幸いです(^^)
こんな阿保な考えの人もいると(笑)

それではまた。

残り僅かになった6月がより善く過ごせますように。
2010.06.28 16:20

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