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帰る場所

.14 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)


ある人と話していて、複雑だけどはっきり見えるものについて考えていた。
この手の話は今までちょくちょくしているので、同じような内容なのだけど。

非常に長話ですので、興味・お時間のない方はまた夕方に・・・




帰るところのある人とない人は違う、ということから始まって、
それぞれの交錯時に生じることの原因を思った。

帰るところのある人、というのは別に実家とかそういうのではなくて。
要は当人が居られる場所を自覚できているという意味。
それは、自分の持つ家族であったり、自分の関わる仕事であったり、まぁそういうものだ。

とても当たり前のことを説明したように思うかもしれないけど、
これが当たり前だと思う人は↑こっち側ということだろう。
あなたはラッキーだ。


帰るところのない人とというのは逆の意味。
たとえ実家があろうが両親健在だろうが、はたまた結婚していようが家族持ちだろうが、
仕事があろうが無かろうが趣味があろうがなかろうが、
当人の居られる場所を自覚しきれないのだ。

これが当たり前だろう、と思う人は間違いなく↑こっち。
ラッキーかどうか、訊いてみるまでもない。 
私の知っている限り、後者の答えを出した人はラッキーな率は著しく低いからだ。
ラッキーな部分を極力信じようとしている、というのが努力の意見だ。



さてこの二者。
私はガッチリ後者から始まって現在に至るので、後者のほうの説明は後にする。
前者のことが分かるかどうか、というと、そうした人々との会話も多くあったので理解している。

人生が生きやすいほうは前者だろう。
基本的な繰り返しとなる他人との関わり方も閉じ方も、
トラブルの対処の仕方も抜け方も上手に越えていく。
自分としての生き方もよく学んで、よくこなしていくし、
何が自分にとって良く、何が悪く、何がしたくて、どうなりたいかも知っている。

この数行だけを書いてみても、何だか分からないが拍手したくなる。
こういうことが流れとして自然である生き方の人は、生まれ育ちが恵まれているか、
もしくは天然でそうなるので、どちらにしてもラッキーという気がする。
皮肉ではなくて、本当にラッキーなんだと私は常々感じる。

こうした生き方がごく自然に出来る人は、大体良心的で『適度な』バランスを持つ。
そしてそのことを『普通』と呼ぶ。


片や、後者の場合は書ききれないくらい、いや正確に言うと書きこぼしたら
「そんなものじゃない」と非難されるほどある人生の荒波。
なので詳しく書かないことにする。
トラブルだらけで人付き合いに悩み続け、自分の在り様・他人のある意味にもがく。
もがき悩んで考えて実行して、好結果が出ない時はさらに途方に暮れるわけで、
そんな繰り返しをしながら成長しては、何が良くて何が悪くてさえ不安になるのは当然だ。
そして何がしたくて、どう動いて良いのか、失敗続きの自分では信用できずに他人に判断を求める。

この人たちは、家族に恵まれなかったか、もしくは天然の場合があるが、
もう一つ要因としては環境の変化によってその時からこうなることもある。

そして、一様にその不安の塊に近づいていくと見えてくるものが、
「帰れる場所がない」ことにある。

信じられないから、ないのか。 全く、ないのか。
とにかく『帰れる場所』が消えている自体、不安の根源になる。
これは、例えばラッキーと私が言った前者の人から取り上げるとしても、不安を作る。

私が思うに、ラッキーな人とオーファンな人とは紙一重。


帰れる場所を自覚している人は、チャレンジも笑顔でするし、
少々の緊張や不安も前向き。
そして一番大きな特徴は結果を重視しないことにある。

結果は大事だけど、結果よりも経過を重んじる傾向が強い。
経過の運びにどれだけ何が出来たか、を見つめるのだ。

それが出来る理由に、「失敗しても大丈夫、経験が大事だから」と思える安心感がある。
失敗しても帰る場所がある。 嫌になって手放したとしても帰る場所がある。
だからいつでも楽しんで生きれるのだ。

もしこれが、ある日突然その通りにならなかったらどうなるだろう。

最初は当惑するだろうが、次第に楽観的に捉えられていた否定・消極的な感覚を恐れ始める。
ただ当惑しているだけでは解決しない、と思い、結果何か『悪いもの』が働いて
状況が変化したんだと原因を探り始めるだろう。
それを突き止めて、どうにか改善すればきっと良くなる、と思いながら。
すると「悪いもの」に対して集中的に意識が傾き始める。
否定的と肯定的の対のフックが外れて独立し、一連の出来事であった起承転結がばらけてしまう。
対だったからこそ怖れずに済んだものが、バラけると不自然な大小になって見えてくる。

これが連続して起こるとか、必死に対応しようと試みても外れる等を繰り返すと、
徐々に後者の状況になる。 


逆はちょっとややこしく簡単ではない。
後者が前者になるためには、そう思い通りに運ばないのだ。
帰り道と帰る場所が見えたとしても、それを疑わなくてよくなるまでが長い。
一つ一つの出来事が一つ一つでしか捉えられないからだ。

よく、「これはこれ、それはそれ、と思うと楽になる」というが、それは正しくない気がする。
正確に言い直せば「これはこうだったけど、こういうこともあるよ、次はいいことがある」という
繋がりを知っているからこそ生まれる言葉だと思う。
単体での出来事としてあっさり処理しているのではなく、
そういう波はあるものだよ、と分かっている言葉に聞こえる。
これが言える人は人生の達人だ。 充分人生謳歌できる。

一つ一つでしか捉えられない人は、「これは嬉しかった、でも次は嫌だった」となり、
「嫌だったことが嫌でたまらない」「もうあんな嫌なことは起こらなければいいのに」と集中する。
嬉しかったことや喜びに関しては、単発花火なのだ。

だがこれの解決点は、この捉え方自体にない。

解決点は非常に単純なのだ。複雑に入り組んだ膨大なジャングルであっても、解決点は一個。
単純な答えだが、単純に解決できないのは意志にある。
後者の考え方や感じ方が、前者のようになるためには、帰り道を帰る場所まで引率する人間が必要なのだ。

たったそれだけのことだ。

だがこれが難しい。
引率する側は無論、前者タイプの人間でなくてはいけないだろう。
後者タイプの人間にとって同じ波長の人間が引率するのは楽だとしても、共倒れになる。
だから前者タイプの人間が手を引いて、帰り道を共に歩いて、帰る場所を知らせるのだが、
さてこれを自ら買って出るような人は果たしてどのくらい存在するのかというと期待できない。

迷子なら家路を教えれば帰れるが、帰る場所のない孤児となると帰り道と家をどう理解するだろう。
そこには多くの困難と忍耐が付きまとうだろう。


多くの導き人は、それを持て余して中途半端に関わって中途半端に捨ててしまう。
だがそれさえ、誰を責めることも出来ないこと。
人の人生は、ラッキーだろうがアンラッキーだろうが一回しかない上に、誰のものでもないのだから。

導き人の態度を恨むことはお門違いなのだ。
その人にだってその人の人生があるのだ。

つまり、引率者が家の扉を開けるまで付き添うかどうか、という点で難しい話になる。


だけど孤児はそのままでなんかいたくないのだ。
それは当たり前だ。 その感覚がなくなったらそっちのほうが深刻だ。
引率者がいなくなる度に不安を膨らませ、引率者を得るたびにすがりつく。

捨てないでほしいから、行き過ぎる。 捨てないでほしいから、言うことを聞こう。
居てほしいから、我慢する。 居てほしいから、何でも渡す。
悲しいくらいボロボロに痩せ細って、孤児は自分を「役に立つ」と虚勢を張る。
その目的は本当は家を知りたいだけなのに、知りたい一身で引率者を引き止めるほうが重要になる。

すでに引率者は奇妙な行動を怪訝に後ずさりしているのに。


と、大体はこういう流れが多いので、解決点である「引率者」をお願いする時は、
自分にも強い意志をもつ決意がいる。



こんなに長話になったというのに、本題はこれからだ。
ここまで読んでくれた方は、トイレ休憩と何か飲み物でも調達して。



本題は、その違いのある両者の交錯時だ。


期待と希望は違う。 期待は待つものだ。待機状態という意味だ。
希望は望みを持つことだ。 簡単に言えば、望みながら進んでいるのが希望だ。

希望は持っていると疲れるが、持ったほうが良い。
希望を持ちながら、自分が今ここにいる、という理由を知る。

期待は持たないほうが良い。そして信頼も持たないほうが良い。
どちらも相手任せで、自覚がない。発信源が自分である自覚がないからだ。


だが、人に住み着きやすく去りがたいのは期待のほうだろう。だから面倒なんだ。


もし、前者のタイプが後者タイプに関わるとしたら、いち早く気がついていち早く決める必要がある。
何を決めるかといえば、関わりを持つか持たないか、だ。
持つのであれば、中途半端に関わって自分の都合で離れていく日が来ることをよく考えたほうが良い。
そんなつもりがあるかどうかは、前者が言葉にしてはいけない。
相手が何を感じるかどうかは、誰にも把握できないのだ。

後者のタイプが前者に関わるとしたら、自分が何を見つけたいのか自覚する必要がある。
その人を求めてはいけない。 
その人はその人でしかなく、もし導き手になってくれたとしても、その人の人生はその人のものだから。
自分が依存しない人間を目指し、過去や現在の苦痛を繰り返さない方法を見つけたいと強く意識するのが、
痛み傷ついた自分への杖になる。

引率者が手を引いてくれても、負ぶさってはいけないのだ。
疲れたからといって泣き言を許すのは自分ではなく、引率者だ。


生きているとどちらかの人間に会いながら過ごすことになる。

どちらもお互いを理解しているようで、理解を超えると強引になる。
見える形で強引さを感情に出す者もいるが、押し付けるとか去っていくとかそういうのも同じだ。

何度も繰り返すなら、何かを学ばないといい加減くたびれるにも限度がくる。


帰る家のある人間は帰ってしまえば、面倒はほったらかしでもそれさえ「良い経験だった」と笑う。
ほったらかされた方のことは「自分には無理だったもの」と過程重視になるから気にしないのだ。

帰る家のない人間は一度寄ってきた人間は、用心深く近づいて、大丈夫そうだと判断して
がちゃんと手錠をかける。驚いて逃げようとするのをなだめたり機嫌をとったり。
結果重視なのが怖れのために安易になる。 結果、それでは付いてくる者も付いてきやしなくなる。



人が人と関わる時、軽い気持ちで、気楽に安易に、適度に、
そんなものは互いが了解してこそアリな話であることをどちらの立場であっても考える必要がある。

深く関わったつもりで、何でも言えると思って、大事に大切に、
そんなことも、自分一人でそう思っているとよく承知する必要がある。


帰り道の見える、帰る場所のある人生でいたい人。

望んだ結果が見えなかったことで失敗になるなら、この世界に人間は生まれない。

充分大変だった感情の渦中に生きていたんだから、悲しかった最後なんて覚えておかなくて良い。
これからも来るだろうと怯えるなら、勿論これからも出くわすだろうとしか言えないが、
傷つくという反応で本当は奪われるものは何もない。傷つくと何で怪我したかを知るだけだ。

傷をかきむしれば痛んで酷くなるのは当然だ。 手当てして治るまで触っちゃいけない。
傷が治るように体を大事にしてやらないと。 
手当ては自分でも出来る。 上手く出来なくても良い、医者じゃないんだから。
一々医者に行くより、自分で出来たほうがえらい。

そのうち、自分の怪我に詳しくなる。 怪我しやすい場所に詳しくなる。
それを避けるのは逃げているのではなくて、学んだから回避するという活きた経験だ。

間違えてなんかいないから、そうやって自分のことを大事にしていく方法を学ぶ。


他人は偶に機嫌がよかったりすると教えてくれるけど、それに側にいる人もいるだろうけど、
傷は自分で治すと決めたほうが良い。 他人の薬は他人の調合だから。
自分の事を守ることが出来る人間じゃなければ、他人と一緒に歩くなんて出来ない。
自分を大切に出来ない人間が、他人を大切になんて出来ない。

傷の治し方を覚えるまでは、他人と自分の区別が付くまでは、ゆっくり進んだほうが良い。



そうやって大事に自分を歩かせながら、度々誰かと会話をして、
ある時、目を向けた先に一軒、家が見えてくるだろう。


自分自身を信じた人にだけ見える家が、自分がやってきた頑張りに誇れる足跡が道を作っている。








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