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空々漠々

.17 2010 未分類 comment(0) trackback(-)
duskmoon_20100717192623.jpg



夕暮れが明るい。知らない間に夜になっているこの頃。
月は細くなりつつあり、白くほのかな明かりをまとって薄青い空に浮かぶ。

7時を過ぎてようやく日が光を引き始める。
セミの声も段々意識するようになる。まだ夕暮れでも油蝉の声だ。

蜩が聞こえ始めるにはまだ一ヶ月くらいあるだろう。

すとんと夕日の名残を引き払った後の空は、突然暗くなる。
あれ?と思うけど、この暗さになると、そろそろ電気をつけようかと思う。
電気をつけたあと、東南の空から花火の轟が響いてくる。

もう花火の時期なんだな、と鳴り止まない轟音に見えない花火の姿を重ねる。
時折、ゴゴゥと繋がる音が聞こえる。
ボン、ボン、という音に続く音。
不思議なもので、その音でどんな形の花火が上がったか見当がつく。
菊のような花火が上がったのか、柳のような花火が上がったのか。
散り桜のような花火だったのか、石楠花のようだったのか。




semi.jpg


(台所の網戸にとまった小さなかわいいセミ。ニイニイゼミ↑)


死ぬならいつが良いだろう、と少し考えていた。
夏が好きじゃない私は夏は嫌だな、と思った。

花火の音で花火の形が連想できるのには正直少し不思議だった。
花火が大好きなわけじゃないし、しょっちゅう見に行ったこともない。
でも何故か人生に数回見ただけの花火を音と一緒に記憶している自分がいる。

セミの種類なんてほとんど分かっていないのに、どのセミから順番に鳴き始めるか
知っている自分がいる。 それもまた、他人事のようだ。

気にもしない自分のこと、もしかしたらみんな結構あるのかもしれない。




散歩のように人生を歩けたら人は幸せを見るだろう。

そんな気がする。

ちょっと軽率かもしれないけど、動物のように生きれたら人は無情に苦しまなかったのだろうか。
動物は決して楽なんかしていないから、知らないだけで四六時中苦しんでいるのだろうかも知れないが。
本能に生きるという意味がどれほど過酷か私は知らない。

でもきっと、体のどこかで、魂の何処かで、その過酷さを見つけているのか。
人だけが生きている意味を求めあぐね、その意味の確かさを躍起になって掘り起こす。
からからに乾いた砂漠に自ら出向いてシャベル一本で油田でも当てたいように。

夏の花火もセミの声も、木枯らしもマンジュシャゲも、霜や氷雨も雪も息の白さも、
春霞の海も桜の美しさも、何も意味がないように生きている時間のほうが長い。


油田なんてとっくに通り過ぎたのかもしれない。
もしくは油田なんて見当違いかもしれない。

自分の生きる場所が見当たらないくて無理やり押し込んでいることに不満なだけなのか。

じゃあ、


そのちっぽけな不満のために、


私はいつでも振り出しに戻る自分で作った迷路の中で

今も泣くのだろうか。




なぜこんなに自然は美しくて、
人は空しいのだろう。

なぜ生かされている身を活かすことが出来ないのだろう。



この手にはこぼれていくものが多すぎる。
そんなに多くを望んだ覚えはないのに。
留まることを知らない砂のように。

いずれ消える身だというのに、未だ何も見つからず。






dusk.jpg


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