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よく思うこと

.06 2010 一滴の栄養の部屋 comment(0) trackback(-)



自分で皮をなめすようになりたいな、と思う。

簡単じゃないことだが、やってはいけないことでもない。

原皮を捨てる人に声をかけて、良かったら譲って頂けませんか?と頼んでみる。
もし譲り受けることが出来たら、なめす努力をする。

・・・今はまだ、その原皮を持つ人に出会えていない。


そういう機会が来たら、是非頼んでみようと思う。




肉や魚を食べるたびに思う。

特に肉は頻繁に食べるので、毎回思うのだ。
食べていることと、私が革を使うことと。

繋がっているのだ。

だけど始まりがない。
当たり前の時代になってしまったけど、個人個人の生活に屠畜がなくなったから、
始まりがぼやけている分、何だかいつも後ろめたい。

始まり部分は、屠畜をすること。

その後、皮と肉が分かれて(他にも沢山)皮は加工されて革になり、肉は口に入る。

さすがにアパート住まいで屠畜を行なうのは無理があるが、
そういう話ではなくて、自分が関わっていることの大事な部分を見つめたいと思って。



肉を食べている時点で関わっているのだが、
そこに加えて革を使っている自分がいる。

肉だけではなく、魚や植物だって万遍なく食べているから今日まで生きているのだ。

哺乳類や魚類・鳥類を殺すことも植物を殺すことも、自分が生きていく為に行なっている。
毎日、必ず生命を殺して食べないと私達は生きていけない。
泣いて血が出るのみが感謝の対象ではない。 泣かずに赤い血が出なくても感謝の対象だ。

それでも台所に収縮された調理の繰り返しと、
店に行って購入する生き物の「物」としての姿で、感謝は随分美化されている気がする。


頂きます、という度に、
革を触る度に、
生かされているのに自分は何だか上辺だけのような気がしている。



真っ赤な鹿の肉を切っている今日も感じた。

牧草を食べに来た鹿を殺した牧場主は、その鹿を食べることを選んで、
その肉を巡り巡って私も受け取った。

私は有難くも受け取っているだけなんだよなぁ、と思う。



取れたての葱や大根を頂戴する時も同じことを感じる。

引っこ抜いたら死んじゃうんだものな、私は両手を差し出して受け取るだけなんだ、と。
愛情を持って育てもしなければ、その生命を絶つこともしない自分。


なのに食べて使う日々。 

それがどれほど根付いている生活の基本なのかも録に意識もせず、
人任せで何もかもを済ませて(それが現在の社会なのだとしても)、
知っている範囲で美化したような精神論を
自分はずっと唱えているんじゃないかと思ってしまう。



だからといって狩りに出かけるわけではない。
狩らなくて良いように、日々多くの牧場から命が殺されて店などに届けられているのだ。

自分で狩をしなければいけない状況にでもなれば別だが、
今はそうではない。 

殺して放血して捌くことがない日常でも、
もしかしたら、狩りをした人が捨ててしまう皮なら
それに関わっていくことができるのではないかな、と思った。

狩人に頼むのではなくて、私が頂いた鹿肉の皮のような機会に。


自分でできるようになりたいな、と思うのだ。 皮をなめすこと。
そうしたら少し始まりに近づけるのではないかと。





そんなことを考えながら、
今日もまた生命の死の上に自分は生かされている。





sikaniku.jpg




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