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10月末

.29 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)


知らないことに取り組むのは時間がかかる。

段取りを細かく分けて組んでみる。
それで行ったり来たりしながら、丁寧に進めていこうと思う。



日常生活も段取りを組む必要がある。

放っておいても変化ない日常なら良いけど、私の日常は日にち単位で重点が変化する。
穏やかな日々なんて1ヶ月も続けばすごいこと。

通常ここに書ける事は、当たり障りのないこと。

この場にまで染み出してくる時は、日常も手一杯の時。
度々日常が氾濫する時はこの場にも痛みが流れてしまうけど、
出来るだけここにはそうした部分を持ち込まないことを心がけたい。


雲行きが心配になることが見え隠れしている最近。

本当に見つめていたいものも側に引き寄せつつ、
荒削りの日常も目を離さないよう、様子を見ながら過ごす。


穏やかな日々が来ることを願う。

そして出来れば、その日々が束の間でないことを。




ある、薬の話

.24 2010 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(-)
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調べもので朝から晩まで終わってしまった一日。

いつからか雨まで降り出し、薄暗い部屋がさらに薄暗くなり、
そぼ降る雨の音と早くに暗くなる夕闇に冷え込む。

一昨日からの体調不良を誤魔化しながら過ごしたが、
寒いわけでもないのにずっと歯がカタカタ鳴っていた。

そろそろ大人しくしたほうがいい気がする。




調べものは、特に重要なことでもないのに量がある。

丁寧に調べようとしたら海外まで行くことになりそう。
そこまではちょっと無理なので、適度に必要なことだけ選ぶ。それでもまだまだ終わらない。


なんの調べものかというと、ちょっと言い難いが『魔法の薬』。

別に怪しくはないのだ。
ここで引かれても困る。

呼び方がそれしかないから、そう書くしかないだけで、
よくよく考えてみれば何てことはない一般的な術の数々だ。


調べている理由はここから先それらを扱うことになるからで、
誰が使うといえば、そういう雰囲気を部屋に飾って(多分)楽しめる人が対象。

別に私が何らかの理由で使用するというのではないのだ。
全く怪しくない。



伝承されているものや、すでに正体の知れているものを掘り下げていくと、
実に多様で研究の幅が広く、奥深いものだと改めて知る。

人の受け入れない時代に未踏の分野を調べ続けるのは、面白半分では到底続けられない。

知らない人からは邪険にされて疎まれたり、生命を奪われかねなかったり。
いやはや恐ろしい。
とても勇敢な、そして忍耐と聡明さが必要なことだったろうと思う。

心から感服する。


しかし中には空恐ろしいものもやはりあって。
そうした一部の異端が招いた悲劇が、現在も未だ拭いきれない黒いイメージを持つのかも。

ある本にこう書いてあったのだが・・・

『・・・敢えて黒魔法・白魔法の区別は本書では採用しない。
 霊の存在が善か悪かは、あくまでも術者の主観の問題である。』

そうだな、と思う言葉。

魂の宿る沢山の生き物の生と死、四元素の妙なる恵みと、
地球の起こす時間の流れなど、魔法に用いられる全ての材料は、
そもそもこの地球にあってこそのものだ。それらに善悪はあてはまらない。

摩訶不思議な名前をつけたり、いかにもマズイ見た目のものは、
ただ単にそれまで誰も求めなかった存在だから、そう捉えられたのかもしれない。


何でもそうだと思うけど、使う人間によるところが大きいのだろう。


あれこれ調べていくと、何もかもが「へぇ、なぁんだ」と思える身近なものばかり。
地域であったりなかったりは勿論あるけれど、そんな度肝を抜かれることはない。
呼び方を換えれば、レメディだって漢方だって魔法の薬。
(※レメディは気持ち『薬』というものだけど、材料がね)

恐ろしげな名前があるときは元を探って背景を知れば、じつはそうでもない。
確かに手を焼くものもあるし、やたらと高価珍妙なものもある。
たまに言葉に詰まる素材もあるが、それもまた、国や文化独特な気もする。


例えば、羊の肉を常食する国で、かたや心臓を一突きして解体するのに、
別の国では突然ひッくり倒して開けたお腹から心臓を握る・・・という違い。
に、あなたがどう感じるか、というのと同じ。

ギョッとするのは異文化というのも外せない。まして時代も古くなればそれはもっとだと思う。

日本人が生きたウニを喜んで割って食べるのも、
はたから見れば気持ち悪いに違いない。(私はウニが好きだけど。)

かわいいスズメを丸々串焼きにしているのだって、モミジなる鳥の足を煮込むのも、
もしかしたら黒い海苔をおにぎりに巻いて食べるのだって、
白魚の踊り食いだって、熊の胆嚢の乾物薬だって、
どこかの国の人々からしたらとんでもないことかもしれない。

マグロの冑焼きがアフリカの羊スマイリー(頭丸焼き)と何も差がないと思うか。
クジラを食べる驚きと、子豚の丸焼きにリンゴをくわえさせる驚きとの差は。

私はカトリックだけど、子羊肉を食べるというのに長年抵抗が消えなかったもの。
(なのに大人の羊は肉も内臓も常食だった)


魔法の材料もまた、反応の差異というだけなのでは。





魔法の薬、というのは、生活の中から生まれたもの。

昔々、医者がとんでもない療法で患者を苦しませたりする時代。
宗教が支配して弱者が幸福から遠ざけられた時代。

自然の力に目を向けて、その恩恵に救いを求めた人々がいた。


それは普通のおばあさんだったし、普通のお母さんだった。
森や海を生業にする老人やおじさんだったし、恩恵を教わる子供たちだった。

世界中のいろんな国で、自然と寄り添って生きた人々の知恵に過ぎない。




強く抱いた探求や切実な願いの生んだ『魔法の薬』だから、
どんな効き目があるのかと思いながら手に取れたら。

私はこの先そんな魔法の薬を、誰かの身近な夢見心となるよう用意したいのだ。




・・・とりあえず自分の症状から治したほうが良さそうだけど。




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風邪

.23 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
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昨日から少し悪寒がして、何かにつけお腹が痛くなる。
掃除機をかけて汗ばんだり、着替えたり、食事をしたり、その都度お腹が痛む。

何だか嫌な予感がするな、と思っていたのだが。

今朝になって、やっぱり風邪を引いたんだと分かる。

慢性鼻炎もあるから、空気が冷たくなり始める夜明けなどは特に息苦しい。
そこに加えて咳が出始めた。
息をするのもやっとの、肺がしぼむような苦しさ。



どうにか落ち着いて、息をそっとするように気をつけながら(普通に呼吸するとむせる)、
遅い朝食に辿りついた。

水団を作って、けんちん仕立ての汁もの一杯。

一口食べるたびに冷たく乾いた感じの気道が熱くなる。
胃に落ちると、胃がそこにあると分かる温かさ。
けんちん様様である。



もしかすると、今日作るものはこれのみかもしれません・・・
作った割には残りませんが。

こんなに体が弱かったっけ?と情けなくなる咳の合間。
2ヶ月前まで暑さに倒れていたのに、今の私は、なんて様なのか・・・



気温の上がり下がりに、時折向きを変える冷たい風に、
皆さんもどうぞお気をつけ下さい。






長く暑い日

.22 2010 一人芝居の部屋 comment(-) trackback(-)

雨が降らないまま、何日過ぎているんだろう。

日本にいると、雨が降らない日を気配みたいなもので気にしだす。
ここは雨のある国なんだ。


最近は雨は降っていなくて、自分のブログも1週間に一度くらいになってしまってるものだから、いつ雨が降ったか正確にはわからない。
そもそもそんな正確さが必要かどうかもわからないけど。

とにかく、雨が、   雨の匂いがしない日々だ。



普段は雨を嫌うのに。
嫌いってことは、もしかしたら何処かで後ろめたいのかもしれない。




さて。最近はほったらかしの毎日が続く。

それはそれで自由な空気が漂うものだから、束の間の楽しさになる。


自由の合間に時折、過去が挟まるのが『現実』への引き金になる。
それは・・・ 物によっては困りもするし、物によっては渇望だった気がして。


ここが本当にノートの上なら、私は書きなぐってるだろう。
自分自身のことを。

まだ、これでも書いていない。

このブログというのは日記みたいなものだけど、
本心を吐露するそういう場所じゃない。


他人が知らなくてもいいことはたくさんある。
そう思う。



ほったらかしなのは、『今・現在・私が求めること』だ。

余計なことに関わりすぎて(関わらざるを得ない状況を選んだために)、ほったらかしなんだ。
苦い思いと、もう金輪際よしてくれよと思う気持ちに、日常が混雑してる。




ほったらかしの中、ふと気がついたことや思い立ったささやかなことに意識が向く。
逃げたいのか、真実なのか。
そんなことさえあやふやなまま、時間を見つけては手が動く。

動き出した手は、私に『0』を与えてくれる。
『0』にある心の動きはシンプルで、ただ単純に楽しかったり、夢中だったり。

それが殊の外、貴重な宝の一滴のように感じる。


笑顔しか出ない時間が、その時にあって。
嬉しさや次の一手間の展開を予想しながら心が躍る、そんな無邪気な心で独占できる時間。


ほったらかしにしていた、『大切な要素』への実感が、
無意識に、無自覚に、重なっては呼び覚まされる気がして。






長く暑い日々。

明日は絵を描きたい。
理由があるんだ。



今日は、真珠に憧れた話をしていた女の子の顔を思い出しながら、真珠のネックレスを作っていた。



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明日は、  明日はもう決まってるんだ。




明日は、


私に白紙の紙のつづりを与えてくれた誰かのために、
白紙の紙のつづりを絵で埋め尽くしたいんだ。


それで、その白紙のつづりが絵本になって、
その人に届くんだ。




誰の意見も聞きたくない、誰の言葉にも左右されたくない私が、
本当は誰かの笑顔や嬉しさの声を聞きたくて創作を使いたいなんて。


何かと悩んだ原因だからおかしな話だと思うけど、でももしかしたら、
それが本当は真実なのかもしれないなんて、思う、この頃。

こういう感覚は避けて通るほうが現実的だと分かっているけど。

真実の思いを知ることは間違いじゃない。
それを受けとめて、本音と現実の境目をちゃんと見続ければいいのだろうか。






いろんな出来事に目まぐるしくなりながら、
何かを掘り起こしそうな気配を感じている。



秋を待ちわびる。






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もう少し

.15 2010 一人芝居の部屋 comment(-) trackback(-)


時間をかけようと思う。


もう少し、どのくらいなのかはっきりしていないが時間をかけてみる。





自分の位置が分からなくなったり、築いていた骨組みが消えたようになったり。

そういうことが次々に起こった。



作ることをためらう妙な消失感。

身近な思いを感じていた人間がいなくなる連続。

過去に終えたはずのことに困惑する時。



私に予想のつくこともあればそうでなかったことも含めて、
随分詰め込んだ時間を過ごしている気がする。


何かのスイッチがパチンと入って、まとめて中身が出て来たようだ。

あまりに連続することに、何をどう対処していたか惑い慌てる。
一つを捕まえて観察したと思ったら、別の一つが浮いてくる。
次々に出てきた驚きと不安の出来事に、立ち往生して何とかしようと焦る。


慌てても間に合わない。

一つ一つが丸きり質が違い、関わった時間も相手も異なることばかり。


だけど答えは共通していることを知った。

また、0になる時なのかもしれない。



何年か前に0になって始めた生活は、そこから少しずつ大切なものが増えていったけど、
その時は文字通り、物質的なものやそれまでの生活の何もかもが0だった始まり。

今度は、やっと増えてきた『新しい』心と関わることを全て失うような感じだ。



でもこれもまた、今だからこそ必要な出来事なのだろうと思う。

分かっていることは、たくさん失う、ということだけだけど、
失う感覚の分だけ何かを得ていた時間があったというのを改めて有難く感じる。



もう少し、片付けていくことに時間をかけて、どれも最後までちゃんと終えようと考えた。

迷いながら進んで、迷いながら見つけたものはそれなりにその時の最善だった。


だから以前の0とは違うんだと分かる。



次は、終わったら次は、どんなことが始まるのだろう。
出来れば、何かを作ることは続けて生きたい。








2010年の夏

.08 2010 一人芝居の部屋 comment(-) trackback(-)
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カモシカも日陰が心地よさそうだ。 陽射しは熱っぽいから・・・



うっかりブログを忘れていた。
気がつけば1週間くらい経ったのか。

あまり日常的な繰り返しを忘れるほうではないのだけど
今年の夏は「量」が多いせいか、どうも気が散る。


「量」。

雑音の「量」だ。



心の中ではどうでもいいことだと思いながら、実際は一応真面目に取り組む必要のある雑音は
ここのところ連続している気がする。

外にいて動物や空の移り変わりを見ている時間に全てを任せたくなる。



片付けなきゃ終わらないことが、始まるのが分かるという・・・
そういう時は始まる前から緊張や不安に取り巻かれて疲れる。

ここのところはそんなのばかりだ。



今年の夏は暑いな。

いつでも夏が来る時は暑いのが嫌いで「今年が一番暑い」と思っている。
だけど毎年記録更新してる気さえする。

苦手なものは一生苦手なのか。


記録といえば、気が変わらないうちに記録をしておこう。

一体、人は過去からのしがらみにいつまで躓かされるのやら。
それが良いことかどうか、すっかり終わって更に20年くらい経たないと感想は言えない。
面倒なものだ。


私の過去は捻じ曲がっていて、その過去を作って歩いてきたのも自分なのだけど、
すっかりどうでもよくなった頃に再びぶり返されると開いた口がふさがらない。
ぶり返すのは一体何がいけなかったのか。

いつでも、前兆の臭いに凍りつく。

終わらせたつもりでも、切り捨てたつもりでも、完結を見届けたつもりでも、
どこかに見落とした穴が開いてるんだろう。
その穴から臭いは漂って、私の「やり直したい人生」の道に忍んでくる。


最近は疲れた。

面倒くさそうな問題が一気に目の前に積まれたと思ったら
片付けるためには一気に済みそうにない、他人のグラウンドに引っ張り出される。
アウェイで問題解決は時間も精神力も引き伸ばすことになる。

まだ問題は終わっていない。 どう終わるのかもアウェイである以上見当がつかない。



周囲の人間は私のことを、暇で反社会的な引きこもりの世間知らずだと捉えている。
それは別にいいのだけど、そのメガネで見えるものだけを口に出されるのは抵抗がある。

思うだけなら好きにすればいいが、現実に私を動かす事態になってまでフィルターは困る。
そうしたフィルターを外してもらうまでも面倒があるし、何より気を遣うのが疲れる。
そんな小さいフィルター越しの中では、片付く問題も手間取って仕方ない。

だからといって何もかも打ち明けて、さっさと終わらせるのも気が進まない。

私は誰にも関わられたくないのだ。
余計なことまで喋らされるのは性に合わない。
そんな必要もないのに、必要事項だけでは不満なのか余計なことを詮索する輩には参る。


早く面倒は片付けたいのだ。

だけど、使えるものは自分の好きに使おうとする者が多い世の中で、
その輩は他人さえも好きに使いたがって踏み込んでくる。
どうでもいいことを、長引かせて、大袈裟にして、押し付けて、個人的な満足のために荒らしたがる。



この夏はどうでもいいことが多すぎる。

終わったことを肩越しに振り返っては、向きを変えて走ってくるような。


ただでさえ暑い夏だ。
今夜は雨が降って、少し涼しいのが安堵を呼ぶが、
普段は立派なくらいその名に恥じない「真夏」の熱。

そんな時に面倒事なんて、どっと疲れる以外何を思えというのだろう。



カミュは異邦人のなかで暑さをトリガーにしたけど、
なるほど。頭もはっきりしなくなりそう。


日陰に行かないと。 
 

帰る場所

.14 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)


ある人と話していて、複雑だけどはっきり見えるものについて考えていた。
この手の話は今までちょくちょくしているので、同じような内容なのだけど。

非常に長話ですので、興味・お時間のない方はまた夕方に・・・




帰るところのある人とない人は違う、ということから始まって、
それぞれの交錯時に生じることの原因を思った。

帰るところのある人、というのは別に実家とかそういうのではなくて。
要は当人が居られる場所を自覚できているという意味。
それは、自分の持つ家族であったり、自分の関わる仕事であったり、まぁそういうものだ。

とても当たり前のことを説明したように思うかもしれないけど、
これが当たり前だと思う人は↑こっち側ということだろう。
あなたはラッキーだ。


帰るところのない人とというのは逆の意味。
たとえ実家があろうが両親健在だろうが、はたまた結婚していようが家族持ちだろうが、
仕事があろうが無かろうが趣味があろうがなかろうが、
当人の居られる場所を自覚しきれないのだ。

これが当たり前だろう、と思う人は間違いなく↑こっち。
ラッキーかどうか、訊いてみるまでもない。 
私の知っている限り、後者の答えを出した人はラッキーな率は著しく低いからだ。
ラッキーな部分を極力信じようとしている、というのが努力の意見だ。



さてこの二者。
私はガッチリ後者から始まって現在に至るので、後者のほうの説明は後にする。
前者のことが分かるかどうか、というと、そうした人々との会話も多くあったので理解している。

人生が生きやすいほうは前者だろう。
基本的な繰り返しとなる他人との関わり方も閉じ方も、
トラブルの対処の仕方も抜け方も上手に越えていく。
自分としての生き方もよく学んで、よくこなしていくし、
何が自分にとって良く、何が悪く、何がしたくて、どうなりたいかも知っている。

この数行だけを書いてみても、何だか分からないが拍手したくなる。
こういうことが流れとして自然である生き方の人は、生まれ育ちが恵まれているか、
もしくは天然でそうなるので、どちらにしてもラッキーという気がする。
皮肉ではなくて、本当にラッキーなんだと私は常々感じる。

こうした生き方がごく自然に出来る人は、大体良心的で『適度な』バランスを持つ。
そしてそのことを『普通』と呼ぶ。


片や、後者の場合は書ききれないくらい、いや正確に言うと書きこぼしたら
「そんなものじゃない」と非難されるほどある人生の荒波。
なので詳しく書かないことにする。
トラブルだらけで人付き合いに悩み続け、自分の在り様・他人のある意味にもがく。
もがき悩んで考えて実行して、好結果が出ない時はさらに途方に暮れるわけで、
そんな繰り返しをしながら成長しては、何が良くて何が悪くてさえ不安になるのは当然だ。
そして何がしたくて、どう動いて良いのか、失敗続きの自分では信用できずに他人に判断を求める。

この人たちは、家族に恵まれなかったか、もしくは天然の場合があるが、
もう一つ要因としては環境の変化によってその時からこうなることもある。

そして、一様にその不安の塊に近づいていくと見えてくるものが、
「帰れる場所がない」ことにある。

信じられないから、ないのか。 全く、ないのか。
とにかく『帰れる場所』が消えている自体、不安の根源になる。
これは、例えばラッキーと私が言った前者の人から取り上げるとしても、不安を作る。

私が思うに、ラッキーな人とオーファンな人とは紙一重。


帰れる場所を自覚している人は、チャレンジも笑顔でするし、
少々の緊張や不安も前向き。
そして一番大きな特徴は結果を重視しないことにある。

結果は大事だけど、結果よりも経過を重んじる傾向が強い。
経過の運びにどれだけ何が出来たか、を見つめるのだ。

それが出来る理由に、「失敗しても大丈夫、経験が大事だから」と思える安心感がある。
失敗しても帰る場所がある。 嫌になって手放したとしても帰る場所がある。
だからいつでも楽しんで生きれるのだ。

もしこれが、ある日突然その通りにならなかったらどうなるだろう。

最初は当惑するだろうが、次第に楽観的に捉えられていた否定・消極的な感覚を恐れ始める。
ただ当惑しているだけでは解決しない、と思い、結果何か『悪いもの』が働いて
状況が変化したんだと原因を探り始めるだろう。
それを突き止めて、どうにか改善すればきっと良くなる、と思いながら。
すると「悪いもの」に対して集中的に意識が傾き始める。
否定的と肯定的の対のフックが外れて独立し、一連の出来事であった起承転結がばらけてしまう。
対だったからこそ怖れずに済んだものが、バラけると不自然な大小になって見えてくる。

これが連続して起こるとか、必死に対応しようと試みても外れる等を繰り返すと、
徐々に後者の状況になる。 


逆はちょっとややこしく簡単ではない。
後者が前者になるためには、そう思い通りに運ばないのだ。
帰り道と帰る場所が見えたとしても、それを疑わなくてよくなるまでが長い。
一つ一つの出来事が一つ一つでしか捉えられないからだ。

よく、「これはこれ、それはそれ、と思うと楽になる」というが、それは正しくない気がする。
正確に言い直せば「これはこうだったけど、こういうこともあるよ、次はいいことがある」という
繋がりを知っているからこそ生まれる言葉だと思う。
単体での出来事としてあっさり処理しているのではなく、
そういう波はあるものだよ、と分かっている言葉に聞こえる。
これが言える人は人生の達人だ。 充分人生謳歌できる。

一つ一つでしか捉えられない人は、「これは嬉しかった、でも次は嫌だった」となり、
「嫌だったことが嫌でたまらない」「もうあんな嫌なことは起こらなければいいのに」と集中する。
嬉しかったことや喜びに関しては、単発花火なのだ。

だがこれの解決点は、この捉え方自体にない。

解決点は非常に単純なのだ。複雑に入り組んだ膨大なジャングルであっても、解決点は一個。
単純な答えだが、単純に解決できないのは意志にある。
後者の考え方や感じ方が、前者のようになるためには、帰り道を帰る場所まで引率する人間が必要なのだ。

たったそれだけのことだ。

だがこれが難しい。
引率する側は無論、前者タイプの人間でなくてはいけないだろう。
後者タイプの人間にとって同じ波長の人間が引率するのは楽だとしても、共倒れになる。
だから前者タイプの人間が手を引いて、帰り道を共に歩いて、帰る場所を知らせるのだが、
さてこれを自ら買って出るような人は果たしてどのくらい存在するのかというと期待できない。

迷子なら家路を教えれば帰れるが、帰る場所のない孤児となると帰り道と家をどう理解するだろう。
そこには多くの困難と忍耐が付きまとうだろう。


多くの導き人は、それを持て余して中途半端に関わって中途半端に捨ててしまう。
だがそれさえ、誰を責めることも出来ないこと。
人の人生は、ラッキーだろうがアンラッキーだろうが一回しかない上に、誰のものでもないのだから。

導き人の態度を恨むことはお門違いなのだ。
その人にだってその人の人生があるのだ。

つまり、引率者が家の扉を開けるまで付き添うかどうか、という点で難しい話になる。


だけど孤児はそのままでなんかいたくないのだ。
それは当たり前だ。 その感覚がなくなったらそっちのほうが深刻だ。
引率者がいなくなる度に不安を膨らませ、引率者を得るたびにすがりつく。

捨てないでほしいから、行き過ぎる。 捨てないでほしいから、言うことを聞こう。
居てほしいから、我慢する。 居てほしいから、何でも渡す。
悲しいくらいボロボロに痩せ細って、孤児は自分を「役に立つ」と虚勢を張る。
その目的は本当は家を知りたいだけなのに、知りたい一身で引率者を引き止めるほうが重要になる。

すでに引率者は奇妙な行動を怪訝に後ずさりしているのに。


と、大体はこういう流れが多いので、解決点である「引率者」をお願いする時は、
自分にも強い意志をもつ決意がいる。



こんなに長話になったというのに、本題はこれからだ。
ここまで読んでくれた方は、トイレ休憩と何か飲み物でも調達して。



本題は、その違いのある両者の交錯時だ。


期待と希望は違う。 期待は待つものだ。待機状態という意味だ。
希望は望みを持つことだ。 簡単に言えば、望みながら進んでいるのが希望だ。

希望は持っていると疲れるが、持ったほうが良い。
希望を持ちながら、自分が今ここにいる、という理由を知る。

期待は持たないほうが良い。そして信頼も持たないほうが良い。
どちらも相手任せで、自覚がない。発信源が自分である自覚がないからだ。


だが、人に住み着きやすく去りがたいのは期待のほうだろう。だから面倒なんだ。


もし、前者のタイプが後者タイプに関わるとしたら、いち早く気がついていち早く決める必要がある。
何を決めるかといえば、関わりを持つか持たないか、だ。
持つのであれば、中途半端に関わって自分の都合で離れていく日が来ることをよく考えたほうが良い。
そんなつもりがあるかどうかは、前者が言葉にしてはいけない。
相手が何を感じるかどうかは、誰にも把握できないのだ。

後者のタイプが前者に関わるとしたら、自分が何を見つけたいのか自覚する必要がある。
その人を求めてはいけない。 
その人はその人でしかなく、もし導き手になってくれたとしても、その人の人生はその人のものだから。
自分が依存しない人間を目指し、過去や現在の苦痛を繰り返さない方法を見つけたいと強く意識するのが、
痛み傷ついた自分への杖になる。

引率者が手を引いてくれても、負ぶさってはいけないのだ。
疲れたからといって泣き言を許すのは自分ではなく、引率者だ。


生きているとどちらかの人間に会いながら過ごすことになる。

どちらもお互いを理解しているようで、理解を超えると強引になる。
見える形で強引さを感情に出す者もいるが、押し付けるとか去っていくとかそういうのも同じだ。

何度も繰り返すなら、何かを学ばないといい加減くたびれるにも限度がくる。


帰る家のある人間は帰ってしまえば、面倒はほったらかしでもそれさえ「良い経験だった」と笑う。
ほったらかされた方のことは「自分には無理だったもの」と過程重視になるから気にしないのだ。

帰る家のない人間は一度寄ってきた人間は、用心深く近づいて、大丈夫そうだと判断して
がちゃんと手錠をかける。驚いて逃げようとするのをなだめたり機嫌をとったり。
結果重視なのが怖れのために安易になる。 結果、それでは付いてくる者も付いてきやしなくなる。



人が人と関わる時、軽い気持ちで、気楽に安易に、適度に、
そんなものは互いが了解してこそアリな話であることをどちらの立場であっても考える必要がある。

深く関わったつもりで、何でも言えると思って、大事に大切に、
そんなことも、自分一人でそう思っているとよく承知する必要がある。


帰り道の見える、帰る場所のある人生でいたい人。

望んだ結果が見えなかったことで失敗になるなら、この世界に人間は生まれない。

充分大変だった感情の渦中に生きていたんだから、悲しかった最後なんて覚えておかなくて良い。
これからも来るだろうと怯えるなら、勿論これからも出くわすだろうとしか言えないが、
傷つくという反応で本当は奪われるものは何もない。傷つくと何で怪我したかを知るだけだ。

傷をかきむしれば痛んで酷くなるのは当然だ。 手当てして治るまで触っちゃいけない。
傷が治るように体を大事にしてやらないと。 
手当ては自分でも出来る。 上手く出来なくても良い、医者じゃないんだから。
一々医者に行くより、自分で出来たほうがえらい。

そのうち、自分の怪我に詳しくなる。 怪我しやすい場所に詳しくなる。
それを避けるのは逃げているのではなくて、学んだから回避するという活きた経験だ。

間違えてなんかいないから、そうやって自分のことを大事にしていく方法を学ぶ。


他人は偶に機嫌がよかったりすると教えてくれるけど、それに側にいる人もいるだろうけど、
傷は自分で治すと決めたほうが良い。 他人の薬は他人の調合だから。
自分の事を守ることが出来る人間じゃなければ、他人と一緒に歩くなんて出来ない。
自分を大切に出来ない人間が、他人を大切になんて出来ない。

傷の治し方を覚えるまでは、他人と自分の区別が付くまでは、ゆっくり進んだほうが良い。



そうやって大事に自分を歩かせながら、度々誰かと会話をして、
ある時、目を向けた先に一軒、家が見えてくるだろう。


自分自身を信じた人にだけ見える家が、自分がやってきた頑張りに誇れる足跡が道を作っている。








水の如し

.04 2010 一人芝居の部屋 comment(0) trackback(-)
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上善は水の如し、という言葉を知っている人は多いだろう。
日本人なら初めにお酒の名前で思い出しそうだ。

上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る・・・


この言葉を思い返しながら、今日はぼんやりしていた一日だった。
車で日中の酷暑の中、近くの山間に行ったが感動する光景の中でもぼんやりしていた気がする。
それでも、高い木々の木漏れ日が作る、異空間のような光の溢れる場所を見つけたり、
そこかしこアジサイが埋め尽くすアジサイの谷を見るとひたすら感動一色に染まる。
足元を何百匹と飛び交うバッタの赤ちゃんも私の気持ちを持って行ってくれた。


朝、何年も前に書いた文書を見つけて読んでいた。
日曜日はゆっくり寝ようと思っているのに、何故か今日はいつもどおり6時半に起きた。
寝直すのも勿体ないので、身の回りのことを済ませて、そして何となし文書に手が伸びる。
幾つもの原稿用紙の束があるなかで、この文書だけは特別なものだった。
文書は、ある一時期に起こった、聞こえないはずの声に伝えられた話を書き留めた内容だから。

開いたページの数行には、
『別れる時、その人に必要な一滴をもたらしたかどうか。』
『その人にもたらされた一滴を受け取ったかどうか。』
『出会う理由は体にない。心にもない。精神が成長に必要な縁を呼ぶのである。』
とあった。

そして他の章をめくると、
『障害とは、時間が迫ってくる場合に連続して出現する。』
『人間の肉体が終わる前に使命を果たそうとせず逃げ続ける者は、障害を増やす。』
『変化しない日常や潜み静まる年月であっても、時には信じることへの障害になる。』


こんな重い文章を読んで、私はぼんやりし始めた。
『吉も凶も縄と同じ。得るも喪も縄と同じ。それらは交互に絡まり、順に訪れる。逃げてはならない。』
そうだな、としんみり納得する。

朝っぱらから、重い。


老子が残した言葉、上善は水の如し・・・

流れる水は万物を育てつつも自らを主張しない、そして人々の恵みとなる処へ集まる。
穏やかで受身な生き方を大切にした老子。
自然の摂理を見極め、自然から学ぶことの一つ、水の如くあれ、と残す。

老子の言葉は理想だ。
そうありたいと思う。

生まれて、生きて、出会って学んで、会得して別れて、与えて与えられ、奪えば奪われ、
そして魂を返す時、死んで終える修行。


人は自然の一部だけど、人と繋がっている時は人の時間を作る。
全てを、自らの学ぶ振動の流れとして受け取ることが出来るなら、
その時は生きている時間を無駄遣いしていないと感じるのだろうか。

流れる身に意志ありと進むことは可能なのだろか。
弱い体と情操を、自らの持ち物と理解して、奥に宿る精神にこそ生きる。

生まれたことを愛し、生きる時に希望を消さず、生かされることに信仰を持ち、
慈しみを持って人生を運ぶこと。


そう、川となって流れる雨露のように。



地獄極楽胸三寸にあり

.08 2010 一人芝居の部屋 comment(4) trackback(-)
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(すごく長いから、お暇のある人はどうぞ)



今日は雨。 でもよく分からない天気みたい。
雨が降ってきて、このまま雨かなぁと見上げると、しばらくして空が明るい曇り空になる。
あれ?と思うとまた少しして雨が降る、という感じ。

二階の窓から外の写真を撮っていたら、一枚に雨の線が写っていてちょっと嬉しくなった。
雨って一瞬のような勢いで落ちていくので、一粒の雨が写ってくれて何となく笑顔になる。



さて、本題。

地獄極楽は胸三寸にあり、とはよく言ったものだと思って。

私は普段は一人でいるのを好むのでひっそりしているのだけど、
たまに相談を持ちかけられることがあり、そうなると何時間も話し込む。

対人というのは実にエネルギーを使うもので、私にとっては気を引き締めて向かうようなところがある。
それも相談となると、相談を持ちかける当人はそんなつもりじゃなくても、
とても強い圧迫感や不安感が部屋中に満ちていくのはあっという間な気がする。


昨夜も人と話していたのだけど、その人は相談という気はないのだろう。
でも知らず知らずのうちに問答のようになるのが常で何時間にも及ぶ。

たまにいるのだが、答えを知りたがる人なのだと思う。

何の答え?というと、自分が不満に思うことや自分の考えにないことが起こったとき、の答え。
これは非常に気を遣う答えで、何せ私は本人ではないのでそもそも答えようがない気さえする。

あまりに執拗になってくると、もう『私に答えがあるのではない』と一言いってしまう。

だけどこうした問答は繰り返されるのだ。
翌々日、一週間後、一月後・・・
その人が再び、『どうしてなんだろう?』『何でこうなんだろう?』と眉間にシワを寄せてこぼしだす。
つまり、答えなんて有って無いような、ただ問答の時間なのだ。



私は思うのだけど。
そしてこの考えを何度となくその人にも話した記憶があるのだけど。

何でもそうかもしれないけど、受け取る気がない人はどんなに答えに繋がっている出来事でも触らない気がする。
それが第一印象で好ましくないものだと認識すると、ただもうそれが嫌で仕方ない。

私もそういう感覚は強くて(人一倍強いだろう)、嫌がるとその嫌気が日常全てに影響してしまう。
だけどそれが答えなら、もしくは答えに近づくものであるなら触ってみないと嫌気はおさまらないわけだ。
逃げても怒ってもくっついてくるものなら、何か今まで試していない方法で対処する他ない。

人に押し付けても、誰かに片付けてもらおうとしても、間違えた方法であるなら対処できないのだ。

それが人によりけりであるなら、尚更自分で解決しないといけないものだと思う。
相談しても気が晴れないのは、自分寄りの答えではないからだ。
自分の成長していない部分を成長させる為の学びが来ているのに、それを今迄の自分のままで越えようとする。
それまでの自分がとってきた方法を一通り試してだめであるなら、それら以外で対処をするのだ。

こういうと簡単に聞こえるのが言葉の恐いところ。
実際はそんなに楽には行かないだろう。 でもだから学びなのだとも・・・ 思うが。


私にいつも誠実な声をかけてくれる人が、よく自分を切り替えるということを話してくれている。
その人のその言葉の意味はとても大変な作業だと、初めて聞いたときは感じた。
でも合っている、ということも勿論分かる。
この場合、私は初っ端から引け腰の姿勢で、今迄の自分に難しいと思われることを認識してしまったのだ。

こうなるとまず、最初にぺタッとくっついた苦手意識から引っぺがさないとならない。
それも一苦労だけど、それが済んだら次は自分の怖れや不安をなだめて心を一度クリアーにする。
自分が臆病で小心者だということを頭の裏側で知りながら、それを無視して平静を保つ。
そしてようやく、自分に『早めに片付けて終わらせれば後は成るようになるから』と笑顔で言う。
『死ぬわけじゃない』から、と。

笑顔で、言う。


これで何度、重たかった一歩が進んできたことだろう。
そこにはいつでもまず、穏やかに幸せでありたいと思う生き方への想いがある。
それは誰からもたらされるものでもなく、
誰かがもたらすことを待つより自分が作り出すことを選ぶほうが早い。

進んでしまえば、それまでくすぶっていた場所はもう背後にある。
自分の影は見えないほうがいい。
影は後ろに伸びるものだ。
そうすれば、自分の真正面はいつでも光の明るさの中にいるということだもの。

自分次第で、と言われる言葉の意味は相当忍耐を試される場合もあるけど、
全てがそういうものでもない。
大きい出来事については確かに心してかからないといけない。
でもそれさえ、自分在りきで起こる事であり、
それが起こるというのは何か得られるものがあるという意味だ。
そして、自分の生き方に満ちていなかった部分を満たす為に起こった出来事とも言える。
以前に、詩を幾つか書いたときにこういう詩を書いたことがあるのだけど・・・


『見てるつもりで、見えない相手』

『深いつもりで、浅い理解』

『広いつもりで、狭い度量』

『正しいつもりで、誤る正義』

『厚いつもりで、薄い信頼』

『要らないつもりで、捨てないプライド』

『強いつもりで、弱い覚悟』

『厳しいつもりで、甘い意識』

『白いつもりで、黒い本音』

『早いつもりで、遅い決意』

『丈夫なつもりで、もろい勇気』

『少ないつもりで、多い欲』

『勝ったつもりで、負け戦』                     (EA机/「夜明けの唄」)


こうしたいろんな自分の中の省みる要素を、その時々で生じるものの内側から見つけ出すのだろう。
善い、生き方をするために。
善い、自分になるために。

逆に言えば、見つけないなら何度でも繰り返すのかもしれない。




話を戻すと、相談をしている人は多分その人自身が答えを知っているのだ。

理解出来ない、と憤る。やりきれない、と肩を落とす。
でもしわくちゃな顔をしていても余計に空気が淀むばかりか、
どうにもならないことにまで否定をし始めてしまう。

理解できなくていい、と思う。理解したって受け入れるとは限らないのだ。
だったら理解できなくても受け入れてみて、その内側で自分に理解できるものを探したら何があるだろう。

やりきれないのはど真ん中にいるからだ。
どうにもならないことなら、笑ってしまって、放っておくしかない。
本当に個人でどうしようもないことなら、それは天を仰いで成り行きを任せるのみだ。



私は相談者の眉間に寄りっぱなしの深いシワに指を当てて左右にぐっと引っ張った。
笑えないのは分かる。でも苦しい顔をして苦しいことに浸っていると出口も光も見失いかねない。


私は思うのだけど、喜怒哀楽あるこの世界で、考えていることを切り替えるとか、
心持ちを変化させて構えてみるとか、そういったことが出来る人は達人なんだと思う。

人生の、達人。

そしてそうした人はいつも一様に、微笑んだり笑顔を絶やさない。
その笑顔の経歴に、震えるほどの恐怖や悲劇があっても、面と向かう人には笑顔を向ける。
偽りでもなくて、無理やりでもなくて。

自分の生きている周りにいる人たちや命たちに、愛のある笑顔を分けている。
慈しみを持って、微笑んでいる。



地獄極楽胸三寸にあり。

私は白帯だな(笑)
私こそ頑張らないと。



思い出すこと・終わらせること

.27 2010 一人芝居の部屋 comment(2) trackback(-)
・・・これはただの日記なので、長くてまとまりがありません。飛ばしてください・・・




思い出というものは勝手に残るものだと思った。
良かれ悪しかれ、印象が強かったり何かしら特徴的だったりすると記憶している。


ここのところ5月の半ばぐらいから、ずっと荷物の片づけをして過ごす毎日だ。
その間、忘れていたものを手にとって、残しておこうと思えたものだけ取って置くという感じで
荷物をまとめてきていた。

昨晩、仲良しの絵描きが「映画を観よう」といって映画を借りてきたので一緒に観た。

この絵描き、非常に過去の経歴が面白い人間で・・・
(人の過去だけど簡単に紹介すると)
十年位前まで格闘家だった人。十数年、リングで闘い続けたという。
普通に仕事をしながら、夕方にジムへ通って、年間で多いときには5回くらいの試合をしていたと言っていた。
トーナメントも入れると年間20試合くらいだった。
本当は大人しい人間なのだが、自分がどこまで出来るのかを確かめる術だったよう。

さて、こんな前置きの画家が借りてきた映画というと大体決まっているのだ。
いつもそうだけど、一緒に観ようとDVDをかけると必ずジャッキー・チェンやジェット・リーの映画。
昨日もそうで、ほんとに好きなんだな~と思って付き合うことになった。

でも、借りてきた映画はそれまでに観た内容と若干違っていた。
カンフーアクションが沢山出てくるのは変わらないのだけど、物語が違っていたのだ。

ジェット・リーの『ダニー・ザ・ドッグ』という映画だった。


映画が終わった後、画家は『あの年で動ける体は・・・』といつものように興奮気味に感動シーン回想を話し続けた。

私はそれを聞きながら、何度も頷いて、何度もそうだねと答えた。
私の中には思い出さなくても良かったものが出てきていた。



記憶が断片になるときがあったり、時折脳裏に浮かぶ見知らぬ光景に悩んだり、
逆に消したくても消しきれない過ちの多さに苦しむことだったり。

人に語れることなんて、当たり障りのない出来事の話しかない。
ほんの少しでも、当たり障りのある過去のほうを話すと良くない。
だけど、それでもいいのだろうと思うようになっていた。

自分で認めて、自分で片付けて、自分で終わらせないといけないことが生きているとある。

過去に対して苦しむなら、過去を見ないようにするのではなくて、
二度と繰り返さないために涙が枯れるまでよくよく見る必要がある。
その後で、先に進むのだ。


最近はその動作が少し鈍っていた。
きっと清算のような片付け作業によって。



ダニーは、首輪をつけられて乱暴な犬のように使われていた男の人。
ある日逃げたダニーが出会った心優しい父娘は、何も知らないダニーを暖かく導く。
首輪を外される時は人を攻撃する時だと叩き込まれてきたダニーは、自分で外すことも出来なかった。
ダニーの首輪の過去を聞きはしないけど、娘はダニーに『過去を切り離す時が来たのよ』と首輪を外す。
ようやくその忌まわしい首輪を、心根の暖かい人によって外してもらえたのだ。

逃亡したダニーに怒る悪漢がダニーを連れ戻す為に、再び首輪をだましだまし着けようとする。
でもダニーはその手を掴んでいう。
『僕は犬じゃない』と。

人間扱いしてくれる人々との優しさに、同時に沢山の恐ろしい出来事を思い出し、
また自らがしていたことに悩むダニーの姿が、
そしてその結果、自分がどう生きて行きたいのかを選ぶダニーの話しが重い。


自分の今までに似たようなことを思い出して、何ともいえない息苦しさを感じていた。

人間を支配するために首輪を使う人間は本当にいるし、
命令を聞かないと命が有るも無いも関係ない仕打ちも実際にある。
人を人と思わない人間は結構一杯いると思うし、私の呼び名は『犬』ではなく『屑』だった。
そして間違いを間違いと思わない行動に無理やり自分を突っ込むことも、
救いなど期待もしなくなる心境が人格を作ってしまうこともあるだろう。




今は、もう違うけど。

今は、もう違う。 もう違うんだ、と繰り返して自分に呟いてみた。



いろんな生き方をしている人がいる。
本当に、いろんな・・・


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